晩年の前田久吉は千葉・南房総の鹿野(かのう)山で多くの時間を過ごした。雲海荘と名付けたその終(つい)のすみかは、駐車場から短い坂道を上った先にある。母の名をとり、シゲノ坂という。
前田はことあるごとに〈母〉を語った。第5回内国勧業博覧会。近所に住んでいた前田少年は、許しが出て大喜びで出かけ、夕方帰ってきたら、母の姿が見えない。裏口へ回ると、小脇に小さな包みを抱え、泣いている。博覧会に行きたがる子供たちに新しい着物を着せてやるため、母は高利貸から金を借りていたのだ―(※1)。
シゲノが寝ついてしまったことがあった。起き上がれない母が、ふと「スイカを食べたい」ともらした。なんとかして食べさせたいが、秋も半ばすぎなので手に入らない。足を棒に大阪中を尋ねまわって、とうとう天満の市場で尋ねあてた。財布をはたいてスイカを買って帰ると、シゲノは手をとって涙を流した―(※2)。
ほとんどのエピソードがこの調子である。前田が単純で前近代的な人物であったというわけではないだろう。むしろ、屈折した物言いや、咀嚼(そしゃく)されていない内面を見せることを嫌う大阪人の含羞(がんしゅう)のあらわれとはいえまいか。