一聞百見

大阪城「新城主」が描くアフターコロナ戦略 宮本裕次さん

豊臣秀吉による築城以来、日本の歴史と深いつながりを持ち続けてきた大坂(大阪)城。復興から90年が過ぎた「大阪城天守閣」(大阪市中央区)の館長に就任したのが宮本裕次さん(56)だ。重要な観光資産であるとともに、博物館でもある大阪城天守閣。新型コロナウイルスの影響で外国人観光客が激減した中での館長職だが、「改めて地元大阪の人たちに親しまれる工夫が必要で、よりアピールできる上質の展示をしていきたい」という。

みやもと・ゆうじ 昭和41年、静岡県富士市生まれ。平成4年、神戸大学大学院を中退し、大阪城天守閣に学芸員として勤務。同15年主任学芸員、同25年研究副主幹、令和3年研究主幹を歴任し、今年4月から大阪城天守閣館長。専門は日本近世史・地域史。大阪城天守閣では、近世から現代までの大阪城の歴史を紹介する展覧会を主に担い、徳川時代の大坂城に関する史料の発掘や紹介にも取り組み、『徳川時代大坂城関係史料集』の編集や解説を担当してきた。論考に「大坂定番制(じょうばんせい)の成立と展開」など。(写真 渡辺大樹)
みやもと・ゆうじ 昭和41年、静岡県富士市生まれ。平成4年、神戸大学大学院を中退し、大阪城天守閣に学芸員として勤務。同15年主任学芸員、同25年研究副主幹、令和3年研究主幹を歴任し、今年4月から大阪城天守閣館長。専門は日本近世史・地域史。大阪城天守閣では、近世から現代までの大阪城の歴史を紹介する展覧会を主に担い、徳川時代の大坂城に関する史料の発掘や紹介にも取り組み、『徳川時代大坂城関係史料集』の編集や解説を担当してきた。論考に「大坂定番制(じょうばんせい)の成立と展開」など。(写真 渡辺大樹)

入館者はピーク時の1割程度

「城主? 足軽、影武者の時代が長かったので、大変ですわ」

大阪城天守閣のトップ、いわば城主である館長に就任したことを問われた第一声である。

一方で「大坂城といえば豊臣秀吉のイメージが強いのですが、徳川の城だった江戸時代も重要な歴史の舞台でした。豊臣大坂城はもちろん、徳川大坂城の魅力も積極的に発信していきたい」と力を込める。

大坂城は戦国時代、織田信長により退去させられた大坂(石山)本願寺の跡地に、豊臣秀吉が築城。秀吉亡き後、徳川幕府と豊臣家が戦った大坂夏の陣(1615年)で焼亡し、徳川幕府が元和6(1620)年に再築工事をスタートした。

徳川幕府が再築した天守は寛文5(1665)年に落雷で焼失し、明治維新の動乱でも一部の建物が焼けた。今の大阪城天守閣は昭和6年に復興された博物館で、①豊臣時代歴史資料②大阪郷土資料③武器・武具参考資料④城郭参考資料-のテーマで、資料収集、調査・研究を進め、展示している。

宮本さんは平成4年に、大阪市の大阪城天守閣の学芸員募集に応じ、神戸大学大学院を中退して学芸員に。30年以上の学芸員生活で、『真田幸村と大坂の陣』『浪人たちの大坂の陣』『徳川大坂城』『幕末大坂城と徳川将軍』『大坂城の近代史』などの展覧会を担当。テーマに合う研究、資料収集を行ってきた。

「私の専門(日本近世史・地域史)を生かせる職場と思って入ったのですが、大阪城の歴史を研究してきたわけでありません。施設のテーマに合わせた研究となりますので、大阪城天守閣に入って、私の芸域を広げることはできましたね」

その宮本さんが学芸員から館長に。

大阪市内の文化財関係施設は大阪市教育委員会の所管だが、博物館とはいえ大阪城天守閣だけは大阪市経済戦略局の所管。博物館だけではなく、観光施設としての位置付けが大きいためだ。

大阪城天守閣の入館者は、コロナ禍前までは外国人観光客を中心に年間200万人以上で推移してきた。

「コロナ禍前は半分以上が外国人でしたが、コロナでほとんど訪れなくなり、入館者数もピーク時の1割程度まで落ち込んでいます。いずれ、コロナが落ち着けば外国人観光客も戻ってくるでしょうが、いつになるかはわかりません」

その打開策は? 宮本さんは「たくさんの人に来てもらう仕掛けは大切です。特に地元・大阪の人たちに親しまれる工夫が必要です。上質な大阪の歴史、城の歴史の展示で、アピールしていきたいと思います」と話す。

今、目にしている徳川の大坂城

「豊臣秀吉の城」というイメージが強い大坂(阪)城だが、今、目にできる巨大な石垣や堀などはすべて徳川幕府によって築かれたもの。昭和59年、「大阪城天守閣」(大阪市中央区)の南東側の発掘で見つかった石垣など、豊臣期の大坂城の痕跡は「徳川大坂城」の下に眠っている。

博物館として、大坂城の魅力を発信していくことを業務にする大阪城天守閣の館長になった宮本裕次さん(56)には、ある思いがあった。

「江戸時代の大坂城は、徳川が豊臣を滅ぼした記念碑として建てたように思われていますが、そんなことはない。徳川が大坂城をどんな目的で作ったのか、大坂城主として日本をどう統治しようとしたのか。そこでの活動を考えて、江戸時代の大坂城の魅力を、さらに発信していきたい。もちろん、豊臣大坂城の魅力の発信もしていきます」

徳川期の大坂城跡を望む「大阪城天守閣」。館長の宮本裕次さんは時代によってさまざまな表情を見せる徳川大坂城の魅力を語る=大阪市中央区(南雲都撮影)
徳川期の大坂城跡を望む「大阪城天守閣」。館長の宮本裕次さんは時代によってさまざまな表情を見せる徳川大坂城の魅力を語る=大阪市中央区(南雲都撮影)

「昔の人の暮らし」に興味があった宮本さんが、進学先に選んだのは立命館大学、日本近世史を専攻した。研究の中心は江戸時代の庶民史。フィールドワークで江戸時代の証書や古文書を発掘し、その読み解きに挑んだ。進学した神戸大学大学院でも日本近世史の研究に励んだ。中退して学芸員として勤務するようになった大阪城天守閣では、古資料や古文書の収集、研究が業務になった。

「大阪城天守閣ではいきなり徳川氏、ヒエラルキー(階層)のトップの文書を読むことになり、戸惑いました。それまで庶民の文書ばかりでしたから。ただ、城にまつわる文書類の収集、分析で、その時代のことがより分かるようになりました」

江戸時代の大坂城。城主は将軍だが江戸にいるため、譜代大名の中から任命された「城代」が駐在し、大坂在勤の幕府の諸役人を統率して政務を統括していた。中小の譜代大名から選ばれた定番(城番=じょうばん)が補佐し、各大名や旗本の家臣らが城の防衛にあたった。

宮本さんは、こうした江戸時代の大坂城にまつわる資料の発掘や紹介に取り組んでおり、これまで「徳川時代大坂城関係史料集」を編集、解説してきた。

「資料からいろいろなことが分かります。医師の緒方洪庵(こうあん)が城内勤務の武士の子供たちにワクチンを接種し、経過観察のため城内に1週間待機していたり、(町人学者の)山片蟠桃やまがたばんとう)が城に入って、天体観測をしています。大坂城と町との関わりはなにか。そんなことも伝えたい」

時代が動いた舞台

一方、幕末の大坂城は時代を動かした。

倒幕運動が激しさを増す中、15代将軍になった徳川慶喜(よしのぶ)は慶応3(1867)年、京都・二条城で、政権を朝廷に返上する「大政奉還」を表明。幕府を解体しても新政権で実権を握るつもりだったが、討幕派の薩摩、長州藩が中心になり、「王政復古の大号令」が出された。

将軍辞職を承認し、幕府、摂政・関白は廃止に。代わって地位や身分によらない「至当の公議」に基づく新たな政権運営の仕組みが宣言された。これは政権から慶喜を排除することを意味する。慶喜は京都を出て、大坂城に入った。

措置に反発した旧幕府軍は大坂城から京都に進撃するが、「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍に敗れ、その後も敗北を重ねて大坂に退却。慶喜は敗報を受けて、大坂城を脱出した。

観光客が落ち込む打開策の鍵に、宮本裕次さんは地元・大阪へのアピールを挙げる=大阪市中央区(渡辺大樹撮影)
観光客が落ち込む打開策の鍵に、宮本裕次さんは地元・大阪へのアピールを挙げる=大阪市中央区(渡辺大樹撮影)

宮本さんは「徳川幕府の崩壊にはいくつか段階があります。大政奉還、王政復古の大号令という意見はあります。しかし、本当に幕府が倒れたのは、慶喜が大坂城を逃げ出したときではないかと思います。この頃の徳川は、大坂城を中心に動いた。慶喜は将軍就任後、一度も江戸城に入ってはいませんでした」。

泰平の世と幕末。それぞれの時代によって、さまざまな顔を見せる大坂城。「その魅力は豊臣期だけではなく、徳川時代にもありました。大坂城の多彩な魅力を、発信していきたいです」

市民の思いを背負い

最近10年間で寄贈されるなどした大坂城の関係資料を展示した「企画展示 大阪城天守閣〝新鮮〟コレクション」が開催されている大阪城天守閣(大阪市中央区)。宮本さんはその展示品のひとつに深い思い入れがある。昭和3(1928)年の「大阪市大礼記念事業趣意書」。6年に完成する天守の復興事業で、大阪市が寄付募集の際に市民に配った文書だ。

趣意書は復興80年のときにも展示したが、それは市が公文書として保存していたものを借りた。その後、市民に配られたものが見つかり、寄贈を受けることができたのだ。「市民向けの趣意書には寄付申込書が付いていました。それがリアル。すべて市民からの寄付で賄われた復興事業が伝わってきます」

近年、寄贈されるなどした大阪城の関係資料を展示した企画展示を見つめる大阪城天守閣館長の宮本裕次さん=大阪市中央区(南雲都撮影)
近年、寄贈されるなどした大阪城の関係資料を展示した企画展示を見つめる大阪城天守閣館長の宮本裕次さん=大阪市中央区(南雲都撮影)

大坂城の天守は豊臣秀吉による築造後、大坂夏の陣(1615年)で徳川幕府軍の攻撃により焼失。徳川幕府は豊臣時代の大坂城の痕跡を地中深く埋めて再建工事を実施。天守は豊臣時代を上回るスケールで寛永3(1626)年に完成したが、寛文5(1665)年の落雷で焼失し、再建もされなかった。

昭和3年、昭和天皇即位の記念事業として、大阪城公園整備とともに復興計画が動き出した。費用は全額市民の寄付で賄うとし、当時の関一(せきはじめ)・大阪市長名で、市民に向けて、寄付申込書が付いた趣意書が配られた。

目標額は大阪城天守閣と陸軍第4師団庁舎の建設、城内の公園化設備費を合わせて総額150万円。募金は前年の金融恐慌の影響が危惧されたが、計7万8千件余りの寄付申し込みがあり、半年足らずで目標額に達した。市民の思いの強さが表れている。

大阪城天守閣に寄贈された大阪城公園建設計画の趣意書=大阪市中央区の大阪城天守閣(南雲都撮影)
大阪城天守閣に寄贈された大阪城公園建設計画の趣意書=大阪市中央区の大阪城天守閣(南雲都撮影)

宮本さんは「市民宛ての趣意書は、仮に古書店に出回っても数千円程度の価値しかないかもしれないが、復興90年のタイミングで寄贈され、大阪城天守閣のものになったということで、貨幣価値に代えられない輝きを放ったように思います」と話す。

明治以降、大坂城は陸軍用地になっていた。天守の復興事業と併せて第4師団司令部(現在のミライザ大阪城)を建設。城跡内に散らばっていた軍の施設はある程度、集約されたとはいえ、先の大戦で大坂城は米軍による空襲のターゲットになった。

宮本さんはその被害を調査し米軍の航空写真、石垣の修理記録などを集めて、被害の実態を明らかにしている。

昭和20年の大阪大空襲では、天守閣の破壊は免れたが、屋根に無数の焼夷(しょうい)弾が落ちた。天守台石垣の北側や東側では、爆弾により石垣の一部がずれたほか、土台の基部がえぐられた。山里丸の石垣には機銃掃射で吹き飛ばされた痕跡が残っている。

宮本さんは「市民からは徳川時代の城なんか壊して、豊臣時代の城にしてほしいという声をいただくことがあります」と明かした上で、こう話す。「すべてを豊臣大坂城にということでしょうが、そうすれば徳川の大坂城、昭和の復興、師団司令部、戦争の痕跡も消えることになりかねない。そうした歴史も含めて、大坂城の歴史です。豊臣時代だけでなく、そうした歴史も大切にしていきたいと思います」(編集委員 上坂徹)

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