歴史の交差点

皇帝バトゥとプーチン氏 山内昌之

山内昌之氏
山内昌之氏

「かれは町(キエフ)を見て、その美しく壮大であることに驚嘆した。そして自分とともにいる者らにむかってつぶやいた。『この地はまことに驚くべきだ。町の美しいこと、その壮麗なことは見事である。もしここの人々がツァーリ(皇帝)Xの力と壮大な事業を知ったなら、かれに服従するだろう。[反抗して]この町とこの地が破壊されるようなことはしないだろう』」。しかし、キーウことキエフの人々は、Xと部下の「かれ」に頭を下げることもなく、戦いつづけたというのだ。Xは、タタールと俗称されたモンゴル帝国のバトゥ・ハーンであり、「かれ」とはメングカク司令官であった。

さて、プーチン露大統領のウクライナ侵攻と前後して、ロシア中世史の重厚な研究書が日本で出版された。カラーの細密画と年代記本文を収めた美術書の趣もあり、296点の絵と中世ロシア語の字体を眺めているだけで、歴史への想像力が高まる。現代のウクライナ問題を基礎から歴史的に考える上でも有益な書物であろう。それは、栗生沢猛夫氏(北大名誉教授)の編訳著『「絵入り年代記集成」が描くアレクサンドル・ネフスキーとその時代』(成文社)のことだ。キエフなどのルーシ(前近代ロシア)が東方のモンゴルに攻撃される光景も出てくる。興味深いのは、史料中のXをバトゥでなく、プーチン氏に置き換えても意味がよく通ることだ。キエフ人は自らを光と信者と真理、バトゥを闇と不信者と無法になぞらえ、降伏を断固拒否した。現在のプーチン氏はまるでバトゥのようだ。

16世紀末でも、後にロシアやウクライナといった名で呼ばれる民族や領土のまとまりは存在しない。「モスクワ人」や「キエフ人」という名がよく使われた。要は当時の人も、モンゴル人であれ何人であれ、自分の町を奪う他人とは戦ったのだ。キエフ人は侵略者と「激しく戦ったが、死者は夥(おびただ)しく、血は川のように流れた」。バトゥは、「もし汝(なんじ)らが余に降伏するなら、汝らには憐(あわれ)みがあるであろう。もし反抗するなら、汝らはひどい苦しみを受け、死を味わうであろう」と述べた。これはプーチン氏の脅迫だとしても誰も疑わない。

キエフ人たちの抵抗もすさまじかった。「そこでは槍(やり)が折れ、盾のぶつかり合う音が響き渡り、飛び交う矢が陽光を遮るのが見られた。それはあたかも夥しい矢で天も見えず、タタールの矢継ぎ早に射る矢で闇が訪れたかのようであった」。現在のキーウ近郊での遭遇戦、マリウポリの攻防戦を思わせる。プーチン氏はルーシをそのままロシア人の祖先と見るが、ルーシの歴史遺産や記憶はウクライナ人ともかなり共通する。モンゴルやドイツなど外敵との祖国防衛戦争はウクライナ人やその祖先も担ったのである。逆に、プーチン氏が現在のウクライナ戦争で果たしている役割は、侵略者バトゥと同じではないか。「愚かなる者らは必死になって努めるが、空(むな)しいままである」という年代記の言葉は、味わい深い。 (やまうち まさゆき)

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