江戸幕府が西国の抑えとして、3つの河川が合流して淀川を形成する要衝に築いた淀城(京都市伏見区)。その跡地から、明治新政府軍と旧幕府軍が争った戊辰戦争の緒戦「鳥羽・伏見の戦い」(1868年)による火災で焼け落ちた家老屋敷の遺構が、京都市埋蔵文化財研究所の発掘調査で初めて確認された。敗走中の旧幕府軍が、淀城への入城を拒否され、城下に火を放ったと文献にあり、遺構はその記録を裏付ける。藩主の稲葉正邦は幕府老中で江戸に滞在しており、藩主不在の中で、家臣らが選択したのが入城拒否。焼け落ちた屋敷の遺構は、明治維新の大局を決めた戦(いくさ)の中で、中立を守り続けた〝証し〟ともいえそうだ。
鳥羽・伏見の戦い痕跡
遺構が確認されたのは淀城本丸東側の東曲輪(くるわ)に該当する場所で、江戸時代後期(18世紀中頃~後半)の礎石建物3棟が出土。そのうち1棟は東西8メートル、南北12メートルで武家屋敷にみられる「式台玄関」を備えていた。また、その遺構面のさらに上面からは、18世紀末から19世紀中頃の礎石建物3棟を検出。礎石や壁土からは強い熱を受けたことによる変色が確認されたほか、溶解したガラス製品、溶けた銅製品が付着した磁器なども出土。大きな火災によって焼失したことが判明した。