拳闘の島 沖縄復帰50年

(28)WBC元世界王者・友利正 沖縄王者の勢ぞろい

沖縄出身の世界3王者。左から具志堅用高、比嘉大吾、友利正=令和2年1月10日撮影
沖縄出身の世界3王者。左から具志堅用高、比嘉大吾、友利正=令和2年1月10日撮影

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平成29年5月20日、東京・有明コロシアムで「白井・具志堅スポーツ」の比嘉大吾がフアン・エルナンデス(メキシコ)を6回TKOで破り、WBC世界フライ級王者となった。沖縄出身の世界王者は具志堅用高から数えて7人目。リング上に、このうち3人の顔があった。

新王者の比嘉と感涙の会長、具志堅。そしてトレーナーの元WBCジュニアフライ級王者、友利正が、穏やかな笑みを浮かべていた。

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那覇市出身の友利が初めて銭湯「若松湯」を訪れたのは、沖縄高1年のときだった。当時銭湯は興南高だけではなく、他校のボクシング部員も下宿させており、友利は先輩と同期を訪ねた。隣接するジムでは帰省中の上原康恒が、トレーナーの仲井真重次のミットに重いパンチを打ち込んでいた。

「プロのパンチはこんなにすごいのか」。友利は驚いたが、上原の強打は特別である。具志堅の滞在中はスパーリングの誘いも受けたが、見学の多さに尻込みして断った。プロ転向後の端正なボクシングからは想像しにくいが、高校時代は左フック一辺倒の荒々しいファイターだった。3年時にはインターハイで高校王者となり、具志堅と同じタイトルに「俺も世界王者になれるかな」と思えたのは、身近にヒーローがいた沖縄の環境のおかげである。

卒業後は三迫ジム入りし、日本王者獲得後のやや停滞した時期に名トレーナー、エディ・タウンゼントがジムと契約した。 「トモリ、ナイスボーイね」

出会いの瞬時に友利は「俺は世界王者になれる。なっていいんだ」と信じた。4人の世界王者を育てていたエディには、そんな不思議な力があった。

昭和57年4月、友利はアマド・ウルスア(メキシコ)を破ってWBCジュニアフライ級世界王者となるが、イラリオ・サパタ(パナマ)との初防衛戦は不可解な判定で敗れ、4カ月後の再戦は8回TKOで完敗した。

引退後はボクシングから離れていたが、平成7年、元世界王者として招かれたたこ揚げイベントの打ち上げの席で、具志堅に「ジムを開くんだ。手伝ってくれないか」と誘われた。「白井・具志堅スポーツ」である。三迫のOBには「協栄の仕事を受けるのか」と憤る者もいたが、友利は「三迫も協栄もない。沖縄の先輩を手伝うだけです」の一点張りで通した。

沖縄・宮古工業高から入門したファイター、比嘉大吾がデビューから13連続KOで世界王者に駆け上がったのが、冒頭のシーンである。会長の具志堅は比嘉を沖縄からスカウトする際、興南高時代の恩師、金城眞吉から「比嘉はプロ向き」との、お墨付きも得ていた。

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初防衛も果たした比嘉は30年2月4日、沖縄県立武道館でメキシコのモイセス・フェンテスと2度目の防衛戦に臨んだ。試合前には前年11月に亡くなった金城と、沖縄ワールドリングジム会長の中眞茂を送るテンカウントゴングが鳴らされた。

リング上には具志堅と友利に加えて上原康恒、浜田剛史、平仲明信といった沖縄出身の世界王者が勢ぞろいし、東洋大学で金城の指導を受けた村田諒太も神妙な面持ちで立った。

興南高で同期の仲井真重次をボクシングに誘い、二人三脚で平仲を育てた中眞は、自らの病を押して「最後のお別れに」と病室の金城を見舞い、その翌日に急逝した。金城が亡くなったのは、その9日後だった。

比嘉は元世界2階級王者のフェンテスを1回2分32秒KOで下した。島袋武信、フリッパー上原、そして具志堅が果たせなかった沖縄人による沖縄での世界戦初勝利だった。だが比嘉は次戦、クリストファー・ロサレス(ニカラグア)戦の計量で体重超過によりタイトルを剝奪され、やがてジムを去った。

具志堅は令和2年7月、「気力、体力ともにこれまでのように情熱を持って選手の指導にあたるには難しい年齢になった」としてジムを閉鎖した。(別府育郎)

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