拳闘の島 沖縄復帰50年

(27)琉球ジム会長・仲井真重次 沖縄のジムから世界へ

「沖縄ボクシングジム」時代の仲井真重次会長 =平成5年2月23日撮影
「沖縄ボクシングジム」時代の仲井真重次会長 =平成5年2月23日撮影

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協栄ジムで具志堅用高の3度目の防衛戦までセコンドに立った仲井真重次は沖縄に帰った。「沖縄のジムから世界王者を」という新たな夢のために。

上原勝栄が会長を務める沖縄協栄ジムに戻り、3人の若い選手を連れて米ロサンゼルスに飛んだ。経験を積んで帰国後にデビューさせる予定だったが、受け皿役の人が頼りにならず、ロスには住むところもなく、ガソリン代にも事欠いた。

現地の沖縄県人会に頼み込んでクラブの片隅を借り、スーパーで買った毛布をかぶって床に寝たが、皆、風邪をひいた。所持金が底をつき、ジムに送金依頼の手紙を書くと「食べるものがなければ動物を殺せばいい」と返事がきた。これはやってられないと沖縄に帰った。「今考えると、幼稚だったよね」

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興南高ボクシング部の先輩2人からジムの創設を誘われ「金を出し合い、悪口をいわないなら」と条件を付けて参加した。27歳だった。金は出ていくばかりで見返りはなく、1人ずつ去り、仲井真が残った。

その「沖縄ボクシングジム」に逸材が入門した。南部農林高で高校王者となり、日本大学からロサンゼルス五輪のウエルター級に出場した強打の平仲明信である。大手のジムが争奪戦を繰り広げる中で平仲が選択したのは「沖縄のジムから世界へ」という仲井真の夢だった。

東京のある会長からは「沖縄でチャンピオンを作っても、かえって金がかかるよ」といわれた。仲井真は「金じゃないんです。本当に沖縄で世界王者を作れるのか。これは自分の挑戦です」と答えた。

平仲は強かった。1985年3月にプロデビューすると、4戦目で日本ジュニアウエルター級王座を獲得し、9度の防衛に成功した。この間、恩師の名トレーナー、エディ・タウンゼントが亡くなり、心の支えを失った井岡弘樹の再起を支えるため仲井真が大阪で特別コーチを務めた時期もある。井岡は「ボクシングに真面目な人でした。エディさんの話もたくさんしてくれました」と話している。

平仲の世界初挑戦は89年4月29日、イタリアでWBA世界ジュニアウエルター級王者ファン・マルチン・コッジ(アルゼンチン)に挑み、3回に2度のダウンを奪いながら、不可解な判定で敗れた。

興行の世界は資金力と権謀がものをいう。「沖縄で大金は作れないから、世界ランク1位を維持して指名試合を待つしかない」。仲井真は平仲にもそう諭して機会を待ったが、師弟は興行の思惑に翻弄され続けた。91年10月には米ラスベガスで新王者、エドウィン・ロサリオ(プエルトリコ)への挑戦が決まったが、仲井真らが現地入りすると、ロサリオは練習中の負傷を理由に帰国した後だった。

仕切り直しの興行権は入札となり、相手はモハメド・アリらを手玉に取った大物プロモーターのドン・キング。結果、敵地に等しいメキシコでの挑戦となったが、92年4月10日、平仲の拳がうなりをあげ、1回1分32秒TKOで、ついに沖縄のジムから世界王者が誕生した。

「防衛を重ねてビルを建て、沖縄での世界戦もと、いろいろ考えたんだけどね」

同年9月9日、日本武道館の初防衛戦で平仲はモーリス・イースト(フィリピン)に11回TKOで敗れた。試合後の検査で脳内出血が確認され、平仲は引退を勧告された。喧騒(けんそう)を避け、平仲を静養に運んだ先は、沖縄の先輩、上原康恒が経営する軽井沢のペンションだった。

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敗戦を機にチームはバラバラとなった。平仲はジムを去り、マネジャーとして仲井真を支えた興南高ボクシング部同期の中眞茂は独立して「沖縄ワールドリングジム」を起こした。中眞は東洋太平洋スーパーバンタム級王者の仲里繁を育て、世界タイトルにも3度挑戦した。

沖縄ジムは「琉球ボクシングジム」と名を変え、仲井真の「沖縄のジムから世界へ」の挑戦も続いている。(別府育郎)

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