拳闘の島 沖縄復帰50年

(26)殿堂入り世界王者・具志堅用高 消えた国民栄誉賞

具志堅用高は沈痛な面持ちで引退会見に臨んだ。右は協栄ジムの金平正紀会長=昭和56年8月7日、東京・新宿
具志堅用高は沈痛な面持ちで引退会見に臨んだ。右は協栄ジムの金平正紀会長=昭和56年8月7日、東京・新宿

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具志堅用高の引退会見は、昭和56年8月7日、東京・新宿の中華料理店で行われた。

「肝臓が思ったより悪くて、もうリングに上がる闘志が湧いてこないんです」

引退理由の第一に挙げたのは肝臓の疾患だった。10度目の防衛戦のころから食事を内臓が受け付けなくなり、試合後には黄疸(おうだん)がでるようになった。12度目からは本当に苦しく、とても戦える体調ではなかった。

■   ■

那覇市の興南高校に入学するため、初めて石垣島を出てから10年がたっていた。

15の春、細く小さい用高を連れて母親のツネは、石垣島の幼なじみで興南高の先輩となっていた仲井真重次を訪ね、こう頼んだのだった。

「重次、用高は肝臓が悪いから激しい運動はさせるなよ」

母の心配は10年の歳月を経て的中したことになる。加えて視力も低下していた。右目は網膜剝離寸前だったという。

その仲井真に誘われて始めたボクシングで高校日本一となりアマチュアで65戦62勝3敗。プロでは世界タイトルマッチ15戦を含む24戦で23勝(15KO)1敗。濃密過ぎた10年は具志堅の体を着実にむしばんでいた。

会見で具志堅はこう話した。

「まだ若いといわれますけどアマで3年、プロで7年、この10年で体はぼろぼろになってしまいました。特に内臓はもともと弱かったし、もう限界にきていました。それに4年半も世界チャンピオンを続けていると、精神的につらかった。リングに上がるたびに怖かった。この怖さはボクシングの経験者じゃないと分からないと思います」

それは、心の叫びといえたろう。「楽しかったことは」との質問には、「計量後のアイスクリームの味」と答えた。

具志堅のすごさを物語る数字がある。視聴率だ。

ビデオリサーチ社の調べによると、初防衛戦で苦戦したハイメ・リオス(パナマ)との再戦にKOで決着をつけた5度目の防衛戦は43・2%の高視聴率となった。14度にわたる防衛戦の平均視聴率は30・6%を記録した。突出した数字ではなく、長年保った平均の高さが広範に持続した人気を示している。

だが具志堅の最大の功績は、復帰後も沖縄と本土との間に色濃く残った「境」を自らの拳で薄めたことにある。

ファン・ホセ・グスマン(ドミニカ)を倒して世界王者となった翌日から多くの沖縄出身者の来訪を受け、口々に「おめでとう」ではなく「ありがとう」といわれ続けた。

「具志堅」は会社や学校で、本土の人と堂々語り合える、復帰後最初の話題となった。「ボクシングを続けてきて本当によかった」と心底思えたあの日から、沖縄の期待と責任を背負い続けた14度の防衛戦だった。

「ちょっちゅね」といった口癖の物まねは島言葉のなまりを笑う差別的なものだったが、具志堅は逆手に取るように多用して市民権を得た。バラエティー番組の人気者となり平成13年のNHK朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」に出演し、放映中の「ちむどんどん」ではボクシングジムの会長役を演じている。

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「確定」が報じられていた国民栄誉賞が具志堅に贈られることは、ついになかった。

大平正芳首相が昭和55年6月、在任中に急逝し、後継の鈴木善幸政権は同年12月、「栄誉賞は見送り」の方針を決めた。

理由は「世論がいまひとつ盛り上がらず、前人未到の業績をあげた国民的英雄には、まだ距離がある」とされた。この時点での受賞者は、本塁打世界記録の王貞治と、作曲家の古賀政男の2人だけだった。

毎日新聞は55年12月15日付の政治コラムで「総理府首脳」に「国民的支持のあるプロ野球と一部に人気のあるボクシングではだいぶ違う。なにしろ殴り合いの格闘技だから」と語らせている。匿名の談話であり、真偽は不明だが、ま、当時の政府のレベルがそんなものだった、ということだろう。(別府育郎)

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