開店10年 東日本大震災で失職した旅館支配人が始めたパン工房

パン工房「OJ60」で重さ1キロの全粒粉カンパーニュを手にする伊藤正和さん=5月26日、宮城県石巻市鹿又扇平(伊藤さん提供)
パン工房「OJ60」で重さ1キロの全粒粉カンパーニュを手にする伊藤正和さん=5月26日、宮城県石巻市鹿又扇平(伊藤さん提供)

東日本大震災で自宅と職を失った元旅館の支配人がパン職人に転身し、震災の翌年に宮城県石巻市の自宅跡地にオープンさせた、こだわりのパン工房が28日で開店10年を迎える。店主の伊藤正和さん(70)は5年前からはがん闘病を続けるなど、この間の道のりは平坦ではなかったが、夫婦二人三脚でこの記念日を迎えられることに感慨深げだ。そして東京からは、伊藤さんの生き方に共鳴した書道家が祝福と激励の思いを込めて、自身の作品100点を送り届けた。

60歳でゼロから挑戦

自作100点を贈ったのは、茨城県警の元刑事で現在は東京都武蔵野市で書道教室「木簡」を開いている門馬龍仙(三雄)さん(74)。夫人が伊藤さんのいとこに当たることから、その温かな人となりに触れ、パン工房経営に声援を送ってきた。

伊藤さんは震災前まで約30年、宮城県女川町にある温泉旅館で働き、営業、フロント、予約、施設管理…と、調理以外は旅館業務のすべてを経験した接客のプロだった。

平成23年3月の震災発生時は支配人を務め、津波で家を流された住民のために旅館を開放。避難所として300人以上を受け入れ、共同生活の指揮をとった。しかし、旅館の経営会社は社長が津波の犠牲となるなど大きな被害を受け、1カ月後に解雇を言い渡された。解雇後もしばらくは避難所の切り盛りにかかわりつつ、就職活動を始めたが、59歳という年齢では新たな仕事を見つけるのは難しかった。

そんな時、何回も通っていたハローワークで目にしたのが、パン職人養成講座のパンフレットだった。「自分で店を開くしかない」と思い立ち、4カ月間、仙台市にある訓練場所のパン工房に通い、パン作りの基礎を学んだ。

念願の自分の店を石巻市鹿又扇平(かのまたおうぎひら)の全壊した自宅跡地にオープンさせたのは、翌年の60歳の誕生日直後の5月28日で、パン工房「OJ60(オージェーロクマル)」と命名した。

OJ60では、硬めの食感に特徴がある「カンパーニュ」と呼ばれるフランスの伝統的な田舎風パンを専門に作っている。店名の由来について伊藤さんは「Oは扇平、Jはジャパンの頭文字で、開店した60歳の時に抱いた『いつの日か日本でカンパーニュといえば扇平と言われるようにしよう』という意気込みを表した」と話す。

材料は小麦、塩、水と3日がかりで起こす自家製酵母だけで、手間ひまを惜しまず、丸2日かけて生地を仕込む。生地を作り、焼くのが伊藤さんの役割で、季節の果実を生地に織り込んだ彩り豊かな商品のラインアップを考えるのは妻、浩美さん(61)の担当だ。

「パンを焼くのは奥が深く、楽しくてしょうがない。独自性を出すために市販の酵母は使わない」と伊藤さんは話し、浩美さんも「二人で成長できる過程が面白い」という。今では宮城県内だけでなく、岩手、福島など隣県から車で買い求めに来る常連客も多い。

ただ、開店当初は週6日営業していたが、現在は金、土、日の週3日にとどめている。5年前に伊藤さんは肺がんの手術を受け、現在も定期的に抗がん剤の点滴を受けており、身体への負担を減らすためだ。今月は白内障の手術も受けた。心配するOJ60のファンからは「店をやめないでほしい」との声が寄せられ、伊藤さんも「営業日が減っても長く続けていくことを大切にしたい」と、気力を振り絞っている。

「心の薪」で焼くパン

「OJ60」開店10年記念で書いた作品の一つを示す門馬龍仙さん。福寿海無量。幸せをもたらす功徳の量が海のように広大であることを表す=東京都武蔵野市吉祥寺東町(佐渡勝美撮影)
「OJ60」開店10年記念で書いた作品の一つを示す門馬龍仙さん。福寿海無量。幸せをもたらす功徳の量が海のように広大であることを表す=東京都武蔵野市吉祥寺東町(佐渡勝美撮影)

書道家の門馬さんは、安易な妥協を許さない伊藤さんが作るパンを「『心の薪』で焼かれたパン」と形容する。燃えさかる薪のような情熱を持って作られたパンという意味だ。伊藤さんはOJ60のオープン後に門馬さんから「心の薪」と記された書作品を贈られ、今も額に入れて店内に掲げている。

門馬さんは大学時代に書道と国語の教員資格を取ったが、卒業後は警察官として郷里の茨城県警に就職。平成17年に水海道警察署(現・常総警察署)長を最後に57歳で退職するまでの33年間のうち20年以上を刑事畑で過ごした。平成11年9月に起きた東海村JCO臨界事故では捜査一課の幹部として、1年3カ月余り捜査に中心的にかかわった。

書道は茨城県警に就職後はしばらく遠ざかっていたが、36歳の時に上司の勧めで再開。以来、激務のかたわら書の道を探究し、県警退職後は東京・吉祥寺で書道教室を始めた。令和元年には産経国際書展で入選している。

今回、開店10年の記念日に合わせて門馬さんが伊藤さんに贈った100点の作品は、様々な書体で描かれ、一つ一つに字の説明と意味を記したメモも添えられている。

門馬さんは「『書は対話』で、文字には力があり、作品は話しかけてくれる。私も警察官時代、困難にぶち当たった際、自分の分身ともいえる作品が発する励ましのメッセージに幾度となく救われた」と話す。

伊藤さんは「いただいた作品はいずれ個性的で強烈なメッセージが感じられる。記念日前日の27日から、作品をほしいと望むお客さんに、これまで支えてくれた感謝の印として先着順で1点ずつお分けしたい」としている。門馬さんも「作品が心の糧としてお店とお客さんをより深く結びつける縁(よすが)となってくれれば」と望んでいる。(佐渡勝美)

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