古代日本の律令国家としての骨格を定めた法典「大宝律令」が施行されたのは大宝元(701)年のことだった。それは律令に基づいて国を運営する律令政治の本格スタートを意味する。この大宝律令の編纂(へんさん)を主導したのが藤原不比等(ふひと)だった。「続日本紀」には前年、文武天皇から、律令制定に携わった刑部(おさかべ)親王(天武天皇の子)、不比等ら19人が身分に応じて、物を賜ったことが記されている。この19人の中で、皇族を除くと最上位者が不比等だった。
律(刑法)、令(行政上必要な法規)を軸にして国家の諸制度を整え、政治体制を作っていくという律令政治。中国では4、5世紀ごろから法典の整備が行われ、隋・唐代には最盛期を迎えていたという。
日本では、天武天皇が天武10(681)年に唐の律令を手本に編纂に着手し、持統天皇が持統3(689)年に施行した「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」がある。「令」1部22巻は公布されたが、「律」については見当たらない。「飛鳥浄御原令」では官制なども整備され、「日本」という国号や「天皇」という称号が初めて、公式に定められたとの見方が強い。
しかし、律がないことなどから体系的な法律整備が必要と判断され、その結果、制定されたのが大宝律令だった。大宝律令の「令」については、飛鳥浄御原令の内容を参考にしてまとめたとみられ、「律」は唐の律を、日本の国情に合わせて修正しながら作成したようだ。律・令がそろった総合法典は大宝律令が初めてで、本格的な律令政治の起点となった。
庶民に戸籍
「大宝令」はどういう内容だったのか。中央政府の仕組みとして、2官8省の官僚体制を作った。2官は、国政を担う太政官(だいじょうかん)と、祭祀(さいし)を担う神祇官(じんぎかん)で、太政官の下に中務(なかつかさ)省、式部省など8省が置かれ、それぞれの職掌を分担する。太政官は国政を統括する機関で、左・右大臣、大納言といった国政の重要事項を審議する議政官らで構成した。