昭和56年4月9日、WBAジュニアライト級世界王者、上原康恒は空路で伊丹空港に降り立った。出迎えた車をみて驚く。スーパーロングのリムジンだった。「こんなに長い車があるのかね」。高級待合室のような広い後部座席には、高そうな洋酒がそろっていた。
だが飲むわけにはいかない。和歌山県立体育館では、挑戦者のサムエル・セラノ(プエルトリコ)が待っている。
1カ月前の3月8日には協栄ジムの後輩で、沖縄・興南高時代には上原の実家「若松湯」に下宿していた具志堅用高がペドロ・フローレス(メキシコ)に敗れ、13度も防衛していた世界王者の座を失った。
弟のフリッパー上原は52年5月29日、ラファエル・オルテガ(パナマ)のWBA世界フェザー級タイトルに沖縄で挑戦して判定で敗れ、引退していた。
上原はジムでただ一人の世界王者となり、日本ボクシング界でもWBC世界フライ級王者の大熊正二(新日本木村)と自身の2人だけになっていた。
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前年8月に米デトロイトでセラノを倒して世界王者となった上原は11月20日、東京・蔵前国技館でレオネル・エルナンデス(ベネズエラ)と戦い、判定で初防衛を果たしていた。
もっとも、採点は2対1と割れ、ベネズエラ人のジャッジはエルナンデスに7ポイントのリードをつけていた。セラノを倒した右の一発にこだわり過ぎたのが凡戦の理由とされた。
「スカッと倒したいという気持ちばかりが先に立ち、自分のボクシングができなかった。次はいいファイトをします」と話す上原を、後輩の具志堅が「上原さんはコンディションが悪かったんですよ。エンジンがかからないうちに終わってしまった」とかばっていた。
セラノとの再戦には勝つだけではなく、自身も世間も納得できる勝ち方が求められた。
ただしセラノは、上原に敗れるまで層の厚い世界のジュニアライト級で10度の連続防衛を果たした試合巧者である。簡単に勝てる相手ではない。
試合展開は、デトロイトの一戦と同様だった。長いリーチから繰り出されるセラノの「雨垂れ石を穿(うが)つ」ような左ジャブが上原の顔面を執拗(しつよう)にとらえる。構わず前に出て一発を狙う上原の強打を警戒して、セラノは深追いをしない。上原が強引に接近すれば、長いリーチに絡めとられてクリンチされる。
3者とも中立国のジャッジで行われた採点は、いずれも僅差でセラノの勝利とされた。
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今も上原は敗れたとは思っていない。試合後は会長の金平正紀が「ひどい採点だ。取られたラウンドなんかない」と息巻いていたが、負けは負けと、どこかでさばさばした気持ちもあった。とにかく、会場にとどまっていたくなかった。タクシーを拾って新大阪駅を目指した。
行きはリムジン、帰りはタクシーか。タイトルを取ったときは行きの成田空港で見送りもなく、帰国時は白バイの先導だったな。世界チャンピオンって、そういうことだよな。
タクシーは新大阪駅に到着した。駅のトイレで小用を足す間に、試合で授与されたトロフィーを盗まれた。
「まあそんなものか」と「沖縄の星」は現役を引退し、ボクシング界とも距離を置いた。ジムの開設に資金を出すと申し出てくれる支援者もいたが、聞く耳を持たなかった。(別府育郎)