長州正論詳報

「なぜ今、河合栄治郎なのか」湯浅氏が持論

長州「正論」懇話会第41回講演会で講演する産経新聞特別記者、湯浅博氏=山口県下関市
長州「正論」懇話会第41回講演会で講演する産経新聞特別記者、湯浅博氏=山口県下関市

山口県下関市で24日に開かれた長州「正論」懇話会第41回講演会で、産経新聞特別記者で国家基本問題研究所主任研究員の湯浅博氏が「全体主義と闘った男 河合栄治郎」と題して講演した。河合は大正・昭和期の思想家としてマルクス主義やファシズムを批判、軍部による弾圧を受けながらも、徹底して自由主義を貫いた人物として知られる。湯浅氏は「なぜ今、河合なのか」と持論を語った。講演の主な内容は次の通り。

私が河合と出会ったのは70年安保闘争真っ盛りの学生のころ、古本屋街を歩き、彼の名著『学生に与う』を手にしたことに始まる。

河合は東京の下町生まれだったが、歴史好きで旧制中学時代を通して影響を受けたのが、硬派な文人であり、ジャーナリストの徳富蘇峰だった。その後、憧れの官立第一高等学校へ進学してエリートの仲間入りすると、さらに2人の知識人の影響を受ける。一人は第一高校長だった新渡戸稲造、もう一人がキリスト教思想家の内村鑑三であった。

東京帝国大を卒業すると、「女工哀史」への怒りから農商務省に入る。大正7年には工場法を研究するために渡米、思想家のトーマス・グリーンの存在を知り、「個人の尊厳」を掲げる理想主義を確信した。帰国後は、ILO(国際労働機関)会議に対する政府方針の策定に当たったが、内務省や上司と対立し、辞任の道を選んだ。

その後、東京帝大助教授に就任し、3年間の欧州留学で英国自由主義の研究に没頭する。帰国すると、関東大震災を契機としたマルクス主義の台頭に直面した。ここから河合は、筋金入りの自由主義者として「左の全体主義」との闘いを始める。だが、はやりのマルキシズムを批判する河合の講義は不人気であり、「御用学者」のレッテルに苦闘した。

やがて、左翼運動が弾圧される時代を迎えると、今度は「右の全体主義」との闘いを始めざるを得なくなった。論壇誌に「五・一五事件の批判」や「国家主義の批判」などを寄稿し、痛烈な軍部批判者となり、右翼団体からも糾弾され、ついには大学から休職処分を受け、教授の座まで追われることになった。昭和14年2月、河合は出版法違反で起訴され、著書4冊が「世を乱すもの」として発禁処分となる。

起訴されてから公判までの苦境の最中、河合は最後の力を振り絞るように、名著となる『学生に与う』の執筆に取り掛かった。200字詰め原稿用紙で920枚を実質20日間という短期間のうちに書き上げたというのだから、常人を超えたすさまじい筆さばきと言わざるを得ない。

書き終えると、「自分はこれ以上でもなければ以下でもない」と、持てる力を出し切ったことへの感慨も述べている。この著書も実は出版が危ぶまれたが、奇跡的に発刊が許され、発売後は知識と教養を渇望した当時の学生の心を激しく揺さぶり、たちまちベストセラーとなった。

河合の好きな言葉に「学問に国境なし、学者に祖国あり」というパスツールの有名な言葉がある。とりわけ、天皇に対する尊崇の念も非常に強い。その思いは『学生に与う』の中にも出てくる。そして、彼は死の間際に書いた幻の著書『国民に愬(うった)う』の中でも「我々の祖国は天皇に象徴される」という表現を使って、天皇の役割を明示して時代を読む先見性も見せている。残念ながら、河合は裁判に敗れ、昭和19年2月に53年の生涯を閉じた。

戦後はマルキシズムの「一派独裁」状態が表面化した。自由主義の河合は死に、国家主義の土方成美は追われ、残ったのは左派マルキシストの大内兵衛だった。かくして、戦後論壇は大内派の天下となる。

5年前に亡くなった評論家、渡部昇一は戦後の知的風土について、河合が健在なら「日本のインテリは、30年も早くマルキシズムの幻想から自由になっていただろう。つまり、河合の死は、日本の知的成熟をざっと30年遅らせたのである」と嘆いている。

振り返って今、ウクライナで戦争が始まったが、ロシアのような全体主義、プーチンという個人による独裁国家が武力を持つと非常に危険である、という教訓を私たちは得たのではないか。そして、それに対抗するためには近代軍隊への国民の支援とともに、自由主義諸国が結束・連帯して武力を抑止していくことがいかに重要か、ということも分かったのではないか。

そういう意味でも、私たちはもう一度、河合栄治郎を評価し、わが日本にも戦前に自分の身を賭して「左右の全体主義」と闘った人物がいたことを再認識してもいいのではないだろうか。

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