飛鳥・奈良時代に活躍した政治家、藤原不比等(ふひと)(659~720年)。行政法、刑法などをそろえたわが国最初の本格法典「大宝律令」の編纂(へんさん)を手掛け、それに基づく律令国家づくりに尽力した。大化の改新の立役者、藤原鎌足を父に持ち、天皇家との外戚関係を結んで政権のトップに立った不比等は、藤原京(奈良県橿原市など)から平城京(奈良市など)への遷都(せんと)を主導。遣唐使を派遣して唐との外交関係を結び、銭貨を鋳造して貨幣経済の導入を図るなど、古代日本の枠組みを作り上げた。
奈良盆地北端に造営された平城京への遷都が行われたのは和銅3(710)年。奈良盆地南端にある藤原京が都となって、わずか16年後のことだった。
持統8(694)年に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)(奈良県明日香村)から都を移した藤原京は、約5・2キロ四方の範囲(大藤原京)に碁盤目状の道路をめぐらせた条坊制による街区を形成。その中央部に天皇の住まいである内裏や政務関係の施設が並ぶ宮域(藤原宮)が配置された本格的な都城だった。
一方、平城京は東西約4・3キロ、南北約4・8キロの長方形の北東部に、東西約1・6キロ、南北約2・1キロの区画が張り出す。藤原京と同様の条坊がめぐらされるが、宮域(平城宮)は藤原宮と違い北端に置かれている。京の南端にある羅城門から平城宮の正門にあたる朱雀門まで、幅74メートルのメインストリート・朱雀大路が通り、その西側を右京、東側を左京とされていた。
遷都をめぐっては、「続日本紀」の慶雲(きょううん)4(707)年2月の条に、「(文武天皇が)諸王・諸臣の五位以上の者に詔を下し、遷都のことを審議させた」とある。遷都について、朝堂内でも賛否が分かれていたことを推測させるが、その4カ月後に文武天皇が死去。後を受けて即位した元明天皇(文武天皇の母)は翌年の和銅元(708)年、平城京への遷都の詔を出している。造営工事はここから始まったとみられる。こうした一連の動きは、右大臣の不比等が主導していたとされる。