拳闘の島 沖縄復帰50年

(23)沖縄で初の防衛戦 「具志堅は寝かされるよ」

フローレス(左)の連打の前に、ついに具志堅が沈む=昭和56年3月8日、沖縄・具志川市総合体育館
フローレス(左)の連打の前に、ついに具志堅が沈む=昭和56年3月8日、沖縄・具志川市総合体育館

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具志堅用高の不滅の13連続防衛も順風満帆にスタートしたわけではない。ファン・ホセ・グスマン(ドミニカ)の前の世界王者、ハイメ・リオス(パナマ)との初防衛戦では3回にダウンを奪われ、自身も「15回だから逆転できた。12回ならやばかった」という薄氷の判定勝利。2度目も実力者のリゴベルト・マルカーノ(ベネズエラ)に判定で防衛したが、2戦とも2対1に採点結果が割れるスプリット・デシジョンだった。

3戦目のモンシャム・マハチャイ(タイ)戦からKO街道を歩み、5度目の防衛戦でリオスと、7度目にマルカーノとの再戦をいずれもKOで下して決着をつけた。このころから「政府が国民栄誉賞を検討」といったニュースが紙上をにぎわすようになった。

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防衛戦のハイライトは、世界ランク1位のマルチン・バルガス(チリ)を8回KOで破った12度目の防衛戦だったろう。

勝利の瞬間、具志堅は両の拳でキャンバスを叩(たた)いてジャンプし、リングに駆け上がった父の用敬が息子を抱きしめた。

12連続防衛はルイス・エスタバ(ベネズエラ)の「11」を破るジュニアフライ級の新記録で翌朝の各紙には「国民栄誉賞確定」の見出しが躍った。

試合後の会見で具志堅は「V12が達成できて幸せです。もし会長がやめろといえば、明日にでもやめます」と話して会場を笑わせた。今では、関係者の多くが「あれは本音だった」と話す。当時すでに具志堅の体調不良が深刻だったことは、後に判明する。親交が深かった王貞治は「私が本塁打王のまま退きたかったのと同じように、彼もチャンピオンのまま引退したかったと思う」と語った。

13度目の防衛戦は楽な戦いが予想されたペドロ・フローレス(メキシコ)に辛勝し、14度目は、同じ相手との再戦が決まった。しかも初の沖縄開催で、試合の直後には豪華挙式も控えていた。逃げ場はなかった。

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暗雲の前兆だったか。

具志堅は沖縄に帰ると必ず高校時代に下宿してボクシングを覚えた上原家に立ち寄り、神棚に手を合わせた。ところが故郷で初の防衛戦を前に、沖縄入り後も一度も顔をみせない。

「具志堅は、なぜ拝みに来ないのかね。神様は待っているのに」と、上原兄弟の母、オトは不思議でならない。

かつての沖縄の母は、総じて信心深い。具志堅の母、ツネも最後まで用高がボクシングをすることに反対していたが、プロ入り後は試合の度に、先祖の墓参りや近くの神社へのお百度参りを欠かさなかった。

だが具志堅の不義理を安易に責めるわけにはいかない。国民的英雄となった具志堅が初めて故郷で戦う大舞台に何としても関わりたいと、興行権をめぐって地下社会を含む、さまざまな思惑が入り乱れていた。

那覇から離れた別荘の宿舎は厳重警備に囲まれ、最終調整はゴルフ場内に設営された臨時施設に限定された。そこへは報道陣を含めて誰も出入りができない。具志堅自身にも移動の自由はなかった。外部との接触を嫌った措置の背景には興行のもつれがあったとされ、現実に試合後は訴訟沙汰に発展する。

そうしたいきさつを、オトが知るよしもない。

上原家の三男、勝栄が会長を務める上原ジムは当時、すでに協栄との契約を終えていた。そこに意外な依頼が舞い込む。六男の弟、光治郎に聞いた。

「フローレス陣営から電話があったんだ。空いているならジムを使わせてほしいって。勝栄さんは来る者拒まずさ。だからフローレスは、うちで面倒をみて具志堅戦に臨んだんだ」

高校1年の小さかった用高に毎日の食事を作ってきたオトには、なぜ具志堅ではなく、その敵が目の前にいるのか、理解し難い。オトはぽつりと、こうつぶやいたのだという。

「具志堅は寝かされるよ」

悲しいかな、母の予言は当たってしまう。(別府育郎)

(24)へつづく

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