拳闘の島 沖縄復帰50年

(22)WBA元世界王者・上原康恒 コザまでの凱旋パレード

世界タイトル獲得の帰国会見に臨む左から上原康恒、具志堅用高、金平正紀会長=昭和55年8月6日、東京・後楽園
世界タイトル獲得の帰国会見に臨む左から上原康恒、具志堅用高、金平正紀会長=昭和55年8月6日、東京・後楽園

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具志堅用高は、上原康恒の世界チャンピオンベルト奪取を、ニュースで知った。

「うれしかったなあ。本当によかったなあって思ったよ。沖縄のボクシングの歴史は、上原兄弟が作ったんだ。フリッパーさんも世界王者になると思っていたんだけどね」

順番を飛ばし、長女、次女を差し置いて三女が最初に嫁入りしたような違和感は、具志堅にもあったのだ。

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10度防衛のプエルトリコの英雄、サムエル・セラノを米デトロイトで破り、WBA世界ジュニアライト級のベルトを手土産に帰国した上原は、協栄ジム会長の金平正紀とともに東京・後楽園の会見場に直行した。会見には、具志堅も同席した。

「セラノはカウント20でも立てなかっただろう。それまでやや硬くなっていたので6回、お前に任せるから好きなようにやれとリラックスさせたんだ」

終始ご機嫌で語ったのは金平で、上原は横に座る具志堅に目をやり、「やっと肩を並べられたと思うと本当にうれしい」と言葉少なに話した。

具志堅は会見前日、サンケイスポーツ紙に長文の談話を出していた。2人の関係性がよく分かる、万感の内容だった。

「兄貴のようにやさしくて、それでいて気の強さは人一倍。ボクが康恒さんの自宅(銭湯若松湯)に下宿していたころからあこがれの人だった」

「昭和49年4月、右も左も分からない東京に出てきた時、康恒さんは自分のアパートに2カ月近く居候させてくれた。一緒に銭湯に行って、背中を流してくれ、そのあと、スナックへもつれていってくれた。康恒さんはカラオケのプロ。『いまにレコードを出すんだ』と得意顔でいってましたね」

「忘れもしないボクがタイトルをとった51年10月、那覇市をオープンカーでパレード。康恒さんとフリッパーさんがボクの両脇に座ったけど、あの時の康恒さんの悔しそうな顔…。後輩のボクに追い抜かれ『コンチクショウ』と心の中で叫んでいたんでしょうね」

「康恒さんが帰ってきたら沖縄で盛大なパレードをするでしょう。その時、今度はボクが隣に座って康恒さんのベルトを持たせてもらう。そして、昔の居候時代のように一緒にカラオケで歌いまくりましょう」

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約束は果たされた。

55年8月9日午後3時、世界王者となった上原を祝う沖縄パレードが始まった。オープンカーの助手席に金平、後部座席には上原と具志堅が並んだ。

凱旋(がいせん)を喜び、オープンカーを用意したのは、上原が高校を退学する原因を作ったかつての不良グループのリーダーだったというから、人の縁は不思議で面白い。沖縄2大スターのそろい踏みに、人々は熱狂した。那覇市若狭町の銭湯「若松湯」という、一つ屋根の下から誕生した2人の世界王者である。

パレードは国際通りを抜けて国道58号線を北上し、上原の母校、中央高校があるコザ(現沖縄市)まで続いた。約30キロの沿道に歓喜の人の波が途切れることはなかった。

「具志堅のパレードは那覇市内で終わったけど、俺のときはコザまで行ったからね」

これが負けず嫌いの上原の、今に至る自慢である。

「具志堅は後に殿堂入りしたけど、俺だって殿堂入りのセラノを倒したんだから、互角と思ったっていいだろう。結局、俺が世界チャンピオンになるまで頑張れたのは、具志堅のおかげだったのかもしれないね」

国際ボクシング殿堂は拳闘界に大きな功績を残した人物を顕彰する米ニューヨーク州カナストータにある博物館だ。具志堅は平成27年、ファイティング原田に続き、現役世界王者のまま交通事故死した大場政夫とともに選ばれた。記念スピーチのため具志堅が訪れた殿堂では、ちょうど「セラノ―上原戦」の映像が流れていた。「先輩は本当にすごいことをやったんだ」。そう実感したのだという。(別府育郎)

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