「天下一の茶の湯者」として君臨した千利休の亡きあと、豊臣秀吉が茶頭(さどう)として後継としたのは、武将の古田織部(おりべ)(1543~1615年)であった。織部は利休の弟子だが、静謐(せいひつ)で端正な「利休好み」とは対照的ともいえる茶の湯の世界をひらく。その美意識は「へうげもの」(「ひょうげもの」と読む)という言葉に象徴される。
「セト茶碗(ちゃわん)、ヒツミ候也(そうろうなり)。ヘウケモノ也」
京都伏見の織部邸に西国大名の毛利秀元らを招いた慶長4(1599)年の茶会の記録に、その表現が初めて登場する。同席した博多の豪商、神屋(かみや)宗湛(そうたん)が常識外れのゆがんだ茶器を見て驚き、記した。「ヘウケモノ」とは、ひょうきんなものといった意味だ。ゆがんでいたり、焼き損ないだったり…。織部の茶会のひょうげたものは茶入、花入、水指(みずさし)など多岐にわたった。