渡海(とかい) 十
棚守房顕(たなもりふさあき)覚書によるとこの夜、宮ノ尾城に潜入した熊谷信直(くまがいのぶなお)と手兵は五、六十艘(そう)の船にのっていたというが信じ難い。五、六十艘の船団ならば陶(すえ)水軍が海の上につくった長大な鉄壁に、必ずやはね返される。しかも五、六十艘だと毛利方の船の三分の一にもおよび、奇襲の機を窺(うかが)っている元就(もとなり)の動きとして腑(ふ)に落ちない。陶方に偽装し厳重な哨戒(しょうかい)網の網の目を潜り抜けるような、五、六艘の小早であったと思われる。
敵に怪しまれず何とか潜り込んだ小人数の熊谷勢だが、見捨てられていないと知った城兵は大いに喜んだ。熊谷は翌日の戦(いくさ)に早速出て、大いにはたらき、沈み込んでいた城中の士気を一気に高めている。
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