上原康恒は、再び連勝街道を着実に歩んでいた。具志堅用高の世界タイトル初防衛以降は自らも10連勝中で、うち9試合がKO勝ちという相変わらずの豪打ぶりだった。日本ジュニアライト級のタイトル防衛も「7」に伸ばしていた。
具志堅の沖縄凱旋(がいせん)パレードでオープンカーに同乗し、「このままでは『具志堅さん』と呼ばなくてはならなくなる」と発奮した意地の連勝である。だが、世界のジュニアライトの層は厚く、並外れた強打も嫌われ、世界挑戦の機会が得られぬまま、29歳となっていた。
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その日は婚約者の免許更新に付き合い、東京都府中市の運転免許試験場にいた。手続きを待つ間、新聞を開いた。そこには自身の世界挑戦が決まった記事が大きく掲載されていた。
相手はWBA世界ジュニアライト級王者、プエルトリコのサムエル・セラノだった。後に国際ボクシング殿堂入りする一流王者で、10度の連続防衛には、康恒のミュンヘン五輪への道を断った因縁の相手、バトルホーク風間を13回TKOで下した試合も含まれた。決戦まで、1カ月しかなかった。
「慌ててジム(協栄)に連絡したら、いきなり『お前どこにいるんだ。さんざん探したんだぞ』と怒られちゃってさ」
携帯電話もポケットベルもなかった時代である。自宅にいなければ、連絡はつかない。
1980年8月2日、米デトロイトで行われた3大世界戦には、5階級制覇のトーマス・ヒットマン・ハーンズ(米国)がホセ・クエバス(メキシコ)のWBA世界ウエルター級タイトルを奪った世界戦デビューの試合も含まれた。
その中でセラノ戦はメインイベントだったが、上原への期待は大きくなかった。上原や会長の金平正紀らの一行には成田空港での見送りもなし。同行の報道陣もなく、米国在住の記者だけが取材した。現地の賭け率も9対1でセラノ有利と、圧倒的な差がつけられていた。
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セラノの武器は、長いリーチを生かした左ジャブである。
「コツンコツン、コツンコツンと、とにかくしつこいんだ。『雨垂れ石を穿(うが)つ』っていうだろう。皆、あれでいやになっちゃうんだ。拳15センチ分、避ければいいだけなんだが」
ゴングが鳴り、試合が始まると、予想通りにセラノのジャブが上原の顔面を突いた。一打一打に力感はないが、的確なヒットを重ねていく。ジャッジの判定は5回までに大差がついた。6回の開始時には金平が「好きなようにやってみろ」と捨て鉢な指示を出した。これが良かったのだと金平は自賛したが、上原はとうに、好きにやっているつもりだった。
「随分ジャブを食ったけど、セラノは逃げていた。絶対つかまえられると思っていた」
6回のワンチャンス。いきなりの右ロングが顔面に届くと左の返しでロープに飛ばし、反動で戻ってくるセラノのあごを渾身(こんしん)の右フックが打ち抜いた。
「光がバチっと出たような感じだった。絶対に立てないと思ったね」。立てなかった。
右の拳を突き上げる上原に、金平が飛びついた。市内の日本料理店でささやかな祝勝会を開き、帰国の成田空港から会見場の東京・後楽園までは、白バイの先導で向かった。
行きは誰の見送りもなかったのに。世界が変わるとはこういうことかと実感した。(別府育郎)