新藤兼人監督生誕110年 「裸の島」ロケ地で考える戦争

映画「裸の島」撮影ロケ当時、女優の乙羽信子さん(左から2人目後方)と記念撮影する堀本逸子さん(同3人目)ら=昭和35年(堀本逸子さん提供)
映画「裸の島」撮影ロケ当時、女優の乙羽信子さん(左から2人目後方)と記念撮影する堀本逸子さん(同3人目)ら=昭和35年(堀本逸子さん提供)

広島出身の新藤兼人監督(1912~2012年)の生誕110年を記念し、映画の舞台となった島をアピールし、広島県三原市を活性化しようとする試みが進んでいる。3月には三原市の蔵元の協力で映画「裸の島」にちなんだ純米吟醸酒と米焼酎を販売。4月には市民映画祭の実行委員会が新藤監督の業績を振り返るリーフレットの改訂版を作製した。関係者らは「生誕110年で新藤監督の作品に改めて注目し、三原市の魅力も広めたい」と期待を寄せる。

「裸の島≪宿祢島≫を愛する会」の玉田武敏さん(左)と映画について語り合う堀本逸子さん。バックには宿祢島が見える=広島県三原市の道の駅「みはら神明の里」
「裸の島≪宿祢島≫を愛する会」の玉田武敏さん(左)と映画について語り合う堀本逸子さん。バックには宿祢島が見える=広島県三原市の道の駅「みはら神明の里」

映画の舞台を整備

三原市の沖合に浮かぶ宿祢島(すくねじま)。椀(わん)を伏せたような丸みを帯びた形が特徴で、面積わずか約7400平方メートルの無人島だ。

島を一躍有名にしたのが、昭和35年に公開された新藤監督の映画「裸の島」。セリフのない実験的作品で、この島を舞台にして、水や電気のない瀬戸内海の小さな島に住む一家の日常や葛藤を描き、36年にモスクワ国際映画祭グランプリ受賞を果たした。

宿祢島はスタッフの滞在先となった佐木島とともに地元の人々に親しまれてきた。平成25年には競売にかけられたが、新藤監督の次男で映画プロデューサーの次郎さんや映画関係者、映画ファンが全国に寄付を呼びかけ、保存に向けて落札者から購入。27年には三原市へと寄贈された。

その後、佐木島住民や市民有志らによるボランティアグループ「裸の島《宿祢島》を愛する会」(御畑完治会長)が結成。メンバーは毎年島にわたり、頂上周辺などの樹木伐採や草刈りを行っている。

映画「裸の島」の舞台となった宿祢島。新藤兼人監督の葬儀ではこの島の形をイメージした祭壇が設けられた=令和2年6月、広島県三原市(玉田武敏さん撮影)
映画「裸の島」の舞台となった宿祢島。新藤兼人監督の葬儀ではこの島の形をイメージした祭壇が設けられた=令和2年6月、広島県三原市(玉田武敏さん撮影)

無人島の酒を

ただ、宿祢島に定期航路はなく、そもそも桟橋がない。周辺は潮の流れが速く、上陸だけでも大変で、整備や保全の資金確保は大きな課題だ。

今年は新藤監督の生誕110年、5月29日には没後10年。この節目に、地域の活性化につなげる話題づくりのためにも、「裸の島《宿祢島》を愛する会」が環境整備や保全の一助にしようと企画したのが酒だった。

地元の酔心山根本店が協力し、純米吟醸酒「裸の島」と米焼酎「宿祢島」を造り、3月に販売を始めた。純米吟醸酒「裸の島」は、三原の酒の特徴である超軟水仕込みできめ細かな酒質を味わえる代表的なものに。売上金の一部は島の環境整備に充てられる。

新藤監督の作品に、酔心山根本店の酒だるなどが備品として使われたこともあった。三原市に唯一残る蔵元でもあり「ぜひ貢献したいという思いがあった」と支配人の坂井邦雄さん(57)は話す。

4月には、三原市の市民映画祭開催実行委員会が生誕110年を記念し、新藤監督の業績を振り返るリーフレット5千部を作製した。平成18年度発行の改訂版で、略年譜には遺作となった「一枚のハガキ」の紹介や、新藤監督が平成24年に100歳で逝去した内容などを追加した。

今でも「ロケ地を回りたい」という人は後を絶たないといい、実行委会長の中野義孝さん(64)は「作品に込められた意味をロケ地めぐりをする方々や三原市民の人たちにも広げていきたい」と語る。

新藤兼人監督の生誕110年を記念し発売された酔心山根本店の純米吟醸酒「裸の島」と米焼酎「宿祢島」を手にする坂井邦雄支配人=広島県三原市
新藤兼人監督の生誕110年を記念し発売された酔心山根本店の純米吟醸酒「裸の島」と米焼酎「宿祢島」を手にする坂井邦雄支配人=広島県三原市

乙羽さんとの思い出

映画「裸の島」にエキストラ出演もした堀本逸子さん(82)の実家は佐木島で、約2カ月間に及んだ「裸の島」撮影時には、主演の乙羽信子さんの宿泊先となった。

「ロケ隊の人たちは本当に礼儀正しく、むしろ見習えと言われるぐらい。撮影期間中に、大雨で洪水のような状況になったことがあった。そのときに真っ先に駆けつけ、土囊(どのう)を積んだりしてくれた」と堀本さんは懐かしむ。その後、島の人々はさらにロケに協力するようになったという。

当時、20歳の学生だった堀本さん。強く印象に残るのは、35歳だった乙羽さんと2人で語り合った撮影最後の夜。新藤監督とまだ結婚していなかった乙羽さんは、堀本さんにこう語った。「逸子さん、平凡な結婚をするのが幸せよ」

アナウンサーの夢を抱いていた堀本さんは当時、ピンとこなかったが、「今もその言葉だけは強く印象に残っている。平凡の大切さを教えてもらった気がする」と振り返る。

二十数年後、乙羽さんはテレビの旅行番組の企画で、佐木島を希望したという。堀本さんと再会し、2人の目には涙があふれた。

中野さんによると、新藤監督は三原市を「第二の古里」と呼んでいた。実は、遺作の「一枚のハガキ」にも遠景で撮影された宿祢島がワンカット出てくる。

平成24年5月29日に亡くなった新藤監督の葬儀では、宿祢島をイメージした祭壇が設けられた。島の海域には、新藤監督と乙羽さんの2人の遺志によって、遺灰の一部がまかれた。

新藤作品この時代こそ

100年に及ぶ生涯で監督作品49本、映画脚本200本以上を残した新藤監督が「これが最後」と思い定めた作品は、独立プロが経済的に行き詰まったときに作った「裸の島」と、遺作「一枚のハガキ」だった。

「一枚のハガキ」は主人公の設定が佐木島出身。監督自身の実体験を基に撮り上げた戦争ドラマで、一人の兵士の死による家庭の崩壊と再生が描かれている。

宿祢島の山頂付近で草刈りを行う市民団体「裸の島《宿祢島》を愛する会」のメンバーら=令和2年6月(玉田武敏さん提供)
宿祢島の山頂付近で草刈りを行う市民団体「裸の島《宿祢島》を愛する会」のメンバーら=令和2年6月(玉田武敏さん提供)

この舞台あいさつで、新藤監督は「戦争のばかばかしさがテーマ」と語った。

ロシアによるウクライナ侵攻は長期化。中野さんは「亡くならなくてもいい人たちが亡くなり、周囲は苦しんで悲しんでいる」ときだからこそ、新藤監督作品に注目することの大切さを強調する。

「苦しいときも悲しいときも一歩一歩進んでいけば乗り越えられる、というのが映画『裸の島』のテーマでもある。今に通じるものがある」。三原市で映画祭を作ってきた中野さんは「新藤監督のライフワークであった反戦・反核。年内にはこうした作品を中心として上映したい」と話している。(嶋田知加子)

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