天正2(1574)年、奈良・東大寺の正倉院は109年ぶりの出来事を迎えていた。奈良時代に渡来したとされ、正倉院の奥に眠る天下一の香木「蘭奢待(らんじゃたい)」の切り取りだ。
天皇の許可を受け正倉院の扉を開いたのは織田信長。信長は切り取った2片のうち1片を正親町(おおぎまち)天皇に献上、残る1片を大阪・堺の商人2人に切り分けている。2人とは津田宗及、そして千利休。堺商人の中で利休が格別な存在として名を成すきっかけになった。
当時、堺商人では津田宗及と今井宗久が双璧をなしていた。宗及は西日本一帯に商売を広げていた豪商で茶人、岐阜城の茶会で信長に歓待されたほどの人物だ。同様に茶人でもあった宗久は鉄砲の調達で信長に貢献し、莫大(ばくだい)な財を成していた。
一方、利休は商人としての知名度や財力では2人に及ばなかったとみられる。裏千家の一般財団法人が運営する茶道資料館の筒井紘一顧問は「利休は名物と呼ばれる道具は持たなかったが、香炉を焚くなど趣向を凝らした茶会を開いていた。名物披露とは違う、人間性のみえるお茶を信長は気に入ったのでは」とみる。相手の思いをくみ取った接待ができる器用さ。信長は、茶人としての能力と可能性を買った。
天下人とお茶
戦国時代、天下人とお茶は密接に結びつく。永禄11(1568)年、上洛を果たした信長に、松永久秀は茶入「九十九髪茄子(つくもなす)」を差し出し、大和(奈良県)の支配権を認めさせた。室町幕府3代将軍、足利義満にルーツをもつ大名物の茶入だ。