ついに巨人・川上監督が「勇退」する日がやってきた。
昭和49年11月20日、静岡・草薙球場での「日米親善野球」最終戦の試合後、セレモニーが行われた。後を託した長嶋、そして王から花束を贈られた川上は「ジャイアンツを頼んだよ」といって握手を交わした。
◇日米野球最終戦 静岡・草薙球場
メッツ 000 040 000=4
巨 人 000 070 00×=7
(勝)玉井2勝 〔敗〕ウェッブ2敗 (S)堀内1S
(本)トーレ⑤(玉井)
五回、先発の玉井がメッツ打線につかまり4失点。だがその裏、川上監督が一塁ベースコーチに立つと巨人ナインは奮い立った。打者一巡の猛攻で7得点。六回から小林―堀内とつないで、勇退の〝花道〟を勝利で飾った。
「昭和13年に巨人に入りまして、以来37年間着てまいりましたユニホームを、きょう限りで脱がしていただくことになりました」
マイクを通し〝別れ〟を告げる川上の言葉にはファンへの感謝の思いが込められていた。小林はそれを「川上監督の〝滅私奉公〟の精神」と表現した。
何のために野球をするのか―と常に自分に問いかける。川上監督の答えはいつも同じ。チームのために、ファンのために野球をする。「それが巨人の伝統なんだよ」と小林はいった。
川上はこう語った。
「ボクの心の中には常に正力(松太郎)さんがおったんです」
巨人軍は常に強くなくてはならない
巨人軍選手は紳士でなくてはならない
巨人軍はアメリカに追いつき追い越すのを目標にしなければならない
これが正力松太郎の残した言葉だ。
「正力さんと二人三脚の監督業だった。どんな難問にぶつかっても〝正力さんならどうするだろう〟と考えるだけで結論が引き出せた」
昭和35年オフ、水原監督の後を受け「監督」に就任した川上は別所や与那嶺、広岡らを相次いで切った。「自分の座を脅かしそうな選手を切った」と陰口をたたかれ、一身に非難を浴びた。だが、川上は口を閉ざし一切弁解しなかった。なぜ?という周囲の声に「正力さんもそうする」とだけ語ったという。(敬称略)