拳闘の島 沖縄復帰50年

(18)殿堂入り世界王者・具志堅用高 運命のグスマン戦

具志堅用高(右)の強打がグスマンを砕いた=昭和51年10月10日、甲府市、山梨学院大体育館
具志堅用高(右)の強打がグスマンを砕いた=昭和51年10月10日、甲府市、山梨学院大体育館

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石垣市新川にある「具志堅用高記念館」では、来館者が2階に上がると、設営された小さなリングの奥の大画面にスイッチが入る。往年の熱戦をリングサイドで観戦できる趣だ。

昭和51年10月10日、甲府市の山梨学院大体育館で行われたWBA世界ジュニアフライ級王者のファン・ホセ・グスマン(ドミニカ)を具志堅用高が下した世界戦の迫力はすさまじい。昨秋に記念館を訪れた際も、息をのみながら7回KOまでの試合の全てに見入ってしまった。

具志堅のむささびのような広背筋が作る見事な上体の逆三角形は映画「燃えよドラゴン」のブルース・リーを想起させた。幼いころのカツオの運搬や、銭湯「若松湯」でのまき割りやタイル磨きが鍛えた体だ。

「リトル・フォアマン」と呼ばれたグスマンの肩の筋肉は最軽量とは思えぬほど丸く盛り上がり、こちらは映画のリーの敵役、ヤン・スエを思わせた。

映画では主役が勝つが、ボクシングには筋書きがない。

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結論を先に書いてしまえば具志堅が2回に2度、4回にもダウンを奪い、7回32秒でKO勝ちを収める完勝だった。だがそんな記述で済まされないほど戦いは終始危険な香りにあふれ、そのスピード感、力感はいささかも色あせない。

「グローブの違いがあるんじゃないかな。当時はメキシコ製の6オンスの軽く薄いグローブで、今は8オンス。全然違うんですよ。パンチのスピードも衝撃も」

リング上での事故が多発したことから1990年代の初めに6オンスのグローブは廃止となり、8オンスとなった。6オンスのグローブは打たれた側ばかりではなく、強打者の拳も痛める。

具志堅の協栄ジムの先輩、海老原博幸や沖縄の後輩、浜田剛史は世界を制しながら度重なる拳の骨折に泣いた。ただグスマン戦の驚愕(きょうがく)をグローブの違いだけには求められない。そうでなければ昭和のボクシングは全て名勝負になってしまう。

1回早々から具志堅の右のリードブローがグスマンの顔面を襲う。グスマンのパンチは空を切るが、いずれも一撃必殺の説得力がある。2回50秒、グスマンの右が一瞬の間隙を縫って具志堅の顔面に飛んだ。

「目の前が真っ暗になって、沈みかけた。あそこで終わっていてもおかしくなかったな」

沈めば歴史も変わっていた。運命を分けた瞬間だった。

持ちこたえた具志堅の左フックがあごを打ち抜き、ロープ最下段に尻を落とすグスマンに右アッパーを見舞ってリング外に落とした。なおもラッシュで2度目のダウンを奪い、3度目のダウンはゴングに阻まれた。優勢に進めた3回にはグスマンの強烈な左フックを食らい、具志堅の膝がガクリと折れた。

4回にも具志堅がダウンを奪うが、グスマンは打ち合いを挑み続けた。「タフだった。レフェリーも止めないし」。7回、具志堅の左ストレートでグスマンはリングに大の字になり、壮絶な試合は終わった。会長の金平正紀に続いて、セコンドの仲井真重次が抱き着いた。

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具志堅は引退後、ボクサー犬を飼い、「グスマン」と名付けた。テレビ番組のスタッフが愛犬の動画を米国で暮らすグスマンにみせたことがある。苦笑していたという。一時は後進の指導もしていたグスマンは昨年5月、ニューヨークのアパートで亡くなった。死後数日を経て発見された孤独死だった。(別府育郎)

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