拳闘の島 沖縄復帰50年

(17)殿堂入り世界王者・具志堅用高 沖縄で初の世界戦

沖縄初の世界戦は島袋武信(手前)がエスタバに挑戦した=那覇市奥武山体育館、昭和50年12月17日
沖縄初の世界戦は島袋武信(手前)がエスタバに挑戦した=那覇市奥武山体育館、昭和50年12月17日

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階級の新設を好機としたのは具志堅用高だけではない。

沖縄の先輩、中央高校から日本大学を経た島袋武信(東洋)もクラスの壁に苦しんでいた。高校、大学と同窓の上原康恒によれば「仲本盛次監督直系」の選手だ。7戦6勝1分けの黒星なしで日本フライ級王座に挑戦したが高田次郎(協栄)に判定で敗れ、ここから4連敗。やはりフライ級のリミットに届かない軽量が悩みの種だった。

ジュニアフライ級新設後の連勝で日本ボクシングコミッションの推薦もあり、WBCの世界3位にランクされた。昭和50年12月17日、島袋は那覇市の奥武山(おうのやま)体育館でWBCジュニアフライ級世界王者ルイス・エスタバ(ベネズエラ)に挑戦した。

これが沖縄で行われた最初の世界戦である。

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視神経を痛めての引退後はロサンゼルスでトレーナー修行を続け、帰国後もエディ・タウンゼントに預けられた仲井真重次は上原兄弟の三男、勝栄が会長を務める沖縄協栄上原ジムを手伝うため、沖縄に帰っていた。島袋の世界戦は具志堅とともに、会場で観戦した。

試合開始早々、エスタバの右ボディーフックでダウンした島袋はペースを握られ、劣勢のまま10回にダウンしたところでレフェリーが試合を止めた。

島袋の完敗だったが、具志堅は仲井真にこう言った。

「にぃにぃ、これだったら俺は勝てる。チャンピオンになれるかもしれない」

仲井真は「ばか言っている間に東京に戻ってランニングでもしてろ」と返したが、協栄ジムの会長、金平正紀から「東京に戻ってこい」と電話を受けたのは仲井真だった。「具志堅の面倒をみる奴(やつ)が必要なんだ」

石垣・新川の幼少期以来のコンビ復活である。仲井真はロス仕込み、エディ直伝のボクシングを具志堅に教えた。

「僕らの時代までは行け行けの一辺倒だった。でもメキシコやアメリカのボクサーはリズムと駆け引きで戦う。用高には、言われたことがすぐにできる素直さと頭の良さがあった」

褒められた例ではないが、ある試合のインターバルでセコンドの仲井真がささやいた。「コーナーに詰めたら相手の足を踏んで叩(たた)け。当たるから」。ラウンドを終えて戻ってきた具志堅は「言われた通りにやったら当たったさ。向こうのセコンドは怒っていたけど」。指示通りに動くことができ、相手のセコンドの表情まで見逃さないところに、具志堅の非凡がある。

サウスポーの具志堅の右足のすぐ前には相手の左足がある。厳密にいえば反則だが、改めて具志堅に聞くと「レフェリーに見つかればね」と答えた。

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具志堅の世界戦が決まった。WBAジュニアフライ級世界王者ファン・ホセ・グスマン(ドミニカ)への挑戦だ。

デビュー8戦の21歳が挑むのは、22戦全勝20KO、うち10戦が1回KO(諸説ある)で「リトル・フォアマン」と呼ばれる強打の25歳である。戦前の予想は圧倒的に王者有利だった。

来日したグスマンは日本側が用意したスパーリングの相手をことごとく倒してしまう。不安を隠せぬ具志堅が「また倒したよ」と訴え、仲井真が答える。「スピードならお前の方がましさ。自分のボクシングだけ考えていろ」。仲井真は、金平からも聞かれた。「今の具志堅なら行けるか」。「行けます。勝てますよ」と答えた。

試合会場は甲府市の山梨学院大学体育館。父親の用敬、兄の用祥、いとこの用治も応援に駆け付けた。用治は友人代表として、俳優の菅原文太から花束を受け取った。金平を先頭に、具志堅が入場した。方々で指笛が鳴るのが聞こえる。沖縄からの応援がある証拠だ。

セコンドには仲井真も立ち、すぐ後ろの席には仲井真の師匠であり、金平にとっては海老原博幸の世界王者復帰を共に戦ったパートナーのエディも陣取った。仲井真がグローブをはめ、両国国歌が流れ、ゴングは鳴った。(別府育郎)

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