余寧(むし)ろ人を信ずるに失するとも、誓って人を疑ふに失することなからんと欲す 『講孟余話(こうもうよわ)』
「草莽崛起(そうもうくっき)」を唱えて30年の人生を一気に駆け抜けた吉田松陰(1830~1859年)は、明治維新そのものだった、と言っても過言ではない。
長州藩(現山口県)の兵学師範を務めていたが、嘉永4(1851)年、江戸訪問中に藩の許可なく東北に旅立ち、翌年、士籍を剝奪される。さらに、同6年のペリーの来航に衝撃を受け、翌年、再来航の際に黒船に乗船を企てて捕縛。萩の野山獄に収監される。
獄中では、囚人らに『孟子』など古典の講義を行い、後に自宅謹慎となった後も教授を続けた。これが松下村塾につながる。
しかし、安政5(1858)年、塾生らと老中、間部詮勝(まなべあきかつ)の襲撃を計画し、またも野山獄に投獄。安政の大獄に連座し、幕府の取り調べ中、この計画を告白し、処刑された。
略歴だけであれば、この長さに収まるほどの短い人生にもかかわらず、会沢正志斎(あいざわせいしさい)、山鹿素水(やまがそすい)、佐久間象山のような時代を牽引(けんいん)した学者、宮部鼎蔵(ていぞう)のような運動家、または桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、伊藤博文のような維新のリーダーたちとの交流によって濃密に彩られている。