小林繁伝

「日米野球」で花を咲かせた巨人・島野 虎番疾風録其の四(48)

巨人時代の島野(右)。背番号は「22」だった=昭和46年、後楽園球場
巨人時代の島野(右)。背番号は「22」だった=昭和46年、後楽園球場

球界が日本ハム騒動で騒然となっているとき、2年目のシーズンを終えた21歳の小林は、大リーグのメッツ打線相手に毎日〝奮投〟していた。

昭和49年10月26日から始まった『日米親善野球』は全国で18試合が行われ、小林は7試合に登板(中継ぎ6、抑え1)。シーズンで8勝を挙げたとはいえ、まだまだ経験不足だった。

そんな「日米野球」でひときわ輝いたのが、入団6年目、小林より2歳年上の島野だ。43年のドラフトで巨人から1位指名され、明大・星野に「星と島の間違いじゃないのか」といわれた武相高の島野修である。

26日の第1戦に抑えで登板し2回をピシャリ。3三振を奪って勝ち投手になると29日の第3戦もリリーフで4回をノーヒット、3奪三振で2勝目。

「おい、巨人にはこんなにいい投手がファームにいるのか」とメッツの選手を驚かせた。

「まさか、こんなに投げられるとは思ってもみませんでした」と記者団に囲まれ興奮する島野。中尾投手コーチも「来季、ある程度、勝ち星を計算できる投手になった」と成長を認めた。

筆者は阪神の一員になった小林に島野の思い出を尋ねたことがある。

「日米野球の移動の新幹線でグリーン車に隣同士で座ったなぁ」

2人とも座席に深く腰を沈め、あたりをキョロキョロ見回していたという。当時、巨人でもシーズン中の移動でグリーン車に乗れるのは監督、コーチと一部の主力選手だけ。日米野球は特別。小林たち若手選手にとってONと一緒の車両はまさに〝夢の列車〟だったのだ。

「オレと違って気持ちの優しい人」というのが小林の島野評。

翌50年、春の米ベロビーチ・キャンプでさらなる成長を見せた島野は4月6日、開幕3戦目の大洋戦(後楽園)に先発した。だが、結果は松原にホームランを打たれるなど3安打3失点で二回途中で降板。以後、7試合に先発したが0勝3敗に終わった。

野球では裏目に出た島野の〝優しさ〟は、阪急のマスコット「ブレービー」、オリックスの「ネッピー」になって花咲いた。そして2人は…。平成22年、小林は1月17日に、島野は5月8日に帰らぬ人となった。悲しい偶然である。(敬称略)

■小林繁伝49

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