拳闘の島 沖縄復帰50年

(16)ああ「沖縄の流れ星」 WBA元世界王者・上原康恒

のど自慢は引退後も。世界タイトル20年を記念したCDのタイトルは「幸せになるんだよ」「俺の拳」
のど自慢は引退後も。世界タイトル20年を記念したCDのタイトルは「幸せになるんだよ」「俺の拳」

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ジュニアフライ級という自らの戦いの場を得た具志堅用高とは対照的に、兄貴分の上原康恒はつらい時期を迎える。

上原は昭和49年8月24日、ホノルルでベン・ビラフロア(フィリピン)の持つWBAジュニアライト級タイトルに挑戦することが決まった。

ビラフロアは前年10月に再戦の柴田国明(ヨネクラ)を1回KOで下してベルトを奪回した強豪だが、上原はハワイでの修行時代に何度もスパーリングをした経験があり、それほど難しい相手とは思えなかった。

上原自身も9連勝中で、うち7試合がKO勝ち。ビラフロア対策にサウスポーを選んだ前哨戦の土屋正治(BVD)を1回2分33秒、強烈な右フックで倒していた。ハワイ時代からの恩師、名トレーナーのスタンレー伊藤の存在も心強く、対策は万全、死角はないはずだった。

ハワイは沖縄にルーツを持つ移民が多く、沖縄から応援ツアーのファンも合わせ、現地の激励会では300人が集まった。ウチナンチュ(沖縄人)初の世界王者誕生を心待ちにする人たちだった。

■   ■

決戦の朝、上原は協栄ジム会長の金平正紀に起こされた。

「おい、髪を切ってこい」

上原は命令されることが大嫌い。しかもこんな大事な朝に、なんでそんなことを言われなければならないのか。不満を抱えたまま試合会場のインターナショナルセンターに向かった。

ゴングが鳴り試合開始早々、上原のワンツーがビラフロアの顔面をとらえる。いいところはここまでだった。そのまま打ち合いに出た上原の顔面にビラフロアの左ストレートがヒットして最初のダウン。2回には再び左ストレートでダウンを喫し、連打から、とどめは右アッパーからの左フックだった。

「打たれてコーナーを見たら会長と目が合ってね。もういいやと思ったら、ひっくり返っちゃった。契約や条件、些細(ささい)なことなど、会長やジムとうまくいっていないときは、ボクサーが負ける。そんなものさ」

期待が大きかった分、ファンの失望、落胆も深かった。「沖縄の星」と期待を集めた男が、「沖縄の流れ星」と書かれた。支援者に合わせる顔もなく、康恒は日本に戻らず、ファイトマネーを手にロサンゼルスに飛んだ。しばらく滞在した後、ジムには寄らず沖縄に帰った。

このまま引退してもいいと考えていたが、来沖した後援会長の説得でようやく東京に戻ることに同意した。

だが、ボクシングに身が入らない。理由はあった。他に収入の道があったからだ。

スナックのカラオケで鍛えたのど自慢が歌手の北原謙二に気に入られ、コンサートの前歌に呼ばれるようになった。

北原は37、38年のNHK紅白歌合戦にも出場したスター歌手で、夜も一緒に飲むようになった。松尾和子や宮城まり子、立川談志らとも知り合い、橋幸夫ら他の歌手からも前歌に呼ばれるようになる。

「九州や仙台、横浜、どこでも歌ったよ。日本人同士の試合で20万円しかファイトマネーをもらえないこともあるのに、前歌のギャラは30万だった」

殴られて手にする20万円より歌ってもらえる30万円を選ぶのは、人情といえたろう。

■   ■

49年11月30日にガーナ出身のフレディ・メイスン(神林)に判定勝ちした後は、8カ月もの間、リングから離れる。

この間、ろくな練習もせず、50年7月21日、岡部進(石川)の持つ日本ジュニアライト級タイトルを1回に3度ダウンを奪うKO勝ちで手にしたのは、さすがの地力といえたろう。

弟のフリッパーもこの年3月に牛若丸原田(笹崎)から日本フェザー級王者のベルトを奪っていた。兄弟日本王者の誕生である。フリッパーはリング上で兄を肩車して祝福したが、兄弟への周囲の本来の期待は、「世界」にあった。

そんな上原を本気にさせる出来事があった。具志堅の戴冠(たいかん)である。(別府育郎)

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