大杉がヤクルト、大下が広島、白が太平洋―と次々に移籍先が決まる日本ハム騒動。ところが張本だけが決まらない。
実はこの騒動で真っ先に発表されたのが張本の「大洋移籍」だった。当時の大洋は主砲・江藤を太平洋に放出したばかり。7度もパ・リーグの「首位打者」に輝いた張本はその穴を埋めるにはうってつけの選手だった。
昭和49年10月23日、東京・六本木の球団事務所で三原球団社長は張本に「大洋移籍」と通告した。
「日本ハムにいる限り君の悪いイメージはつきまとう。大洋という新しい世界で力を発揮すればそのイメージも簡単に取り払えるだろう。君は日本ハムにいてはいけない」
いやはや、ひどい通告である。張本は黙って了承した。ところが、その2日後の25日、大洋移籍が取り消された。
当初は張本を〝ポスト江藤〟に―と考えた大洋だったが、大洋の外野陣は江尻、長崎、中塚とすべて左打者。その上、左の張本はいらない。そして一癖も二癖もある張本が加われば「秋山新監督が苦労する」という中部オーナーの思いからだった。
三原社長はその日のうちに巨人に連絡した。巨人は長嶋が抜けた穴を埋める選手が必要となっていたからだ。25日の午後6時、「日米親善野球」で来日したメッツの歓迎式典の席で三原は直接、川上監督に申し入れた。
「あの男の熱心さはウチの山内コーチに劣らない」と川上は絶賛した。翌日の紙面で『急転、張本巨人入り濃厚』と打った新聞社もあったほど。ところが、3日後の28日、日本ハムは張本の『残留』を発表したのである。
巨人はこれまでの〝純血主義〟をやめ、長嶋次期監督自身が熱心に新外国人選手の獲得に乗り出していた。そして問題児・張本の獲得に読売上層部が難色を示したのだ。
11月26日、思い余った張本は三原社長に会談を申し込んだ。
「〝日本ハムにはいてはいけない男〟といわれたワシは、どんな気持ちでプレーしたらいいんです?」
すると三原社長はとぼけてこういった。
「う~ん、誰か、そんなマズイことをいったかなぁ」
「喝!」―いまなら張本はそう叫んだに違いない。(敬称略)