拳闘の島 沖縄復帰50年

(15)殿堂入り世界王者・具志堅用高 とんかつと今太閤

飯田橋のとんかつ店「ひろかわ」で働く具志堅用高=昭和51年11月1日撮影
飯田橋のとんかつ店「ひろかわ」で働く具志堅用高=昭和51年11月1日撮影

(14)へもどる

沖縄から上京した具志堅用高の生活は、後援者に紹介されたとんかつ店でのアルバイトと、上原兄弟のアパートを出て店の近くに住むことで落ち着いた。

沖縄の先輩でもボクシング関係者でもない「普通の人」との関わりが、当時の具志堅には必要だった。飯田橋のとんかつ店「ひろかわ」。この店で具志堅は、世界タイトルを5度防衛するまでアルバイトを続けた。

皿洗いに始まり、キャベツを刻み、最終的にはとんかつも揚げるようになった。早朝は築地市場にオートバイで買い出しに行く店主の卯木照邦の後ろをロードワークで追う。交通量が増える帰りは地下鉄に乗った。卯木は剣道家でもあり、武道館での稽古も見学に通った。

「剣道では右足が前で、絶対に左足は前に出ない。竹刀を持つ手も右手が前で、ボクシングのサウスポーと一緒なんです。相手との間合い。右足の踏み込み。一瞬でも目を離したら負けてしまう集中力。なんでも勉強になったな。目の前で見ていたらすごいよね」

■ ■

デビューした具志堅を悩ませたのは、クラスと体重だった。プロの最軽量、フライ級のリミットが112ポンド(50・80キロ)なのに対し、具志堅の主戦場だったアマチュアのモスキート級は45キロ以下で、しかも減量いらずの小兵だった。

ちなみにフライはハエ、モスキートは蚊である。

「こっちは食べても太らないのに、相手は普段は60キロぐらいの体重から減量してくる。だから体が一回り以上違うんだ」

協栄ジム会長、金平正紀は賭けに出る。当時のボクシング界ではスピードが失われるとタブー視されていた、ウエートトレーニングの導入だ。具志堅はサンドバッグもない後楽園のボディービルのジムに通い、ひたすら筋肉を増量させた。

当時の貴重な映像が残っている。昭和49年7月15日、後楽園ホール。デビュー以来破竹の8連勝を続けていたフリッパー上原は、メインイベントでコロンビアのウーゴ・バラサに4回KO負けを喫してしまった。

予想外に早い決着に放映時間が余ったのだろう。前座としてエキシビションで行った上原康恒の3ラウンドの公開スパーリングを番組に流した。

ラウンドごとに相手を変え、3回の相手が具志堅だった。ジュニアライトの康恒とはクラスも戦歴も全く違うのだが、具志堅は臆せず鋭い眼光で先輩をにらみ、果敢に前進を続ける。最初はいいようにあしらっていた康恒にも次第に熱が入る。

熱心なファンが当時の番組を録画しており、ダビングして届けてくれたDVDを、康恒が東京・渋谷区で営む沖縄料理店「ちゃんぴおん」で見た。

家族で来店していたIBF世界スーパーフェザー級現役王者の尾川堅一(帝拳)も思わず驚嘆する迫力のスパーだったのだが、肝心の康恒は「これ、本当に俺か。全く記憶にないんだ」と首をかしげていた。

■ ■

吉報が届く。

49年7月、東洋ボクシング連盟(OBF)はフライ級の下にジュニアフライ級を新設することを決め、リミットを108ポンド(48・97キロ)とした。WBA、WBCもこれに追随した。

モスキートとフライの間にできた階級は、筋トレで体重を増やした具志堅には理想のクラスだった。戦う場という水を得た魚の快進撃が始まる。いとこの具志堅用一は、ここからの用高を「豊臣秀吉みたいだ」と感じていた。若き日に「サル」と呼ばれた秀吉は出世街道を駆け上がり、ついには天下を取る。

具志堅は51年1月23日、ジュニアフライ級世界3位のセサール・ゴメス・キー(米国)と川崎市体育館で戦った。14戦14勝12KOの世界ランカーを相手に戦前の予想は圧倒的に不利だったが、2回にダウンを奪うとその後も一方的に打ちまくり、7回KO勝ちを収めた。

世界戦への挑戦権を得たこの試合が、プロでもがいていた具志堅の評価を一変させた。(別府育郎)

(16)にすすむ

会員限定記事会員サービス詳細