拳闘の島 沖縄復帰50年

(14)殿堂入り世界王者・具志堅用高 100年に1人の天才

デビュー戦を控えてジムで練習する具志堅用高=昭和49年撮影
デビュー戦を控えてジムで練習する具志堅用高=昭和49年撮影

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協栄ジムのマネジャー、高橋勝郎は宮城県石巻市出身の元プロボクサーで引退後は会長、金平正紀の右腕的存在としてジムを支えてきた。康恒、フリッパーの上原兄弟を日本大学在学中にジムに引き抜いたのも、高橋の仕事だった。拓殖大学入学のために上京した具志堅用高を羽田空港で待ち受けた高橋は、笑顔で用意した車に誘った。車が向かった先は協栄ジムである。金平が待ち構えていた。

「金メダルで飯は食えない。プロの世界王者で金を稼げ」

金平と高橋、2人がかりの説得に18歳の少年はあらがい切る術(すべ)を知らなかった。あいまいな返事を繰り返すうちに金平は手回しよく記者に連絡を入れ、翌朝の新聞が報じた。「高校日本一の具志堅用高が協栄でプロに転向する」「100年に1人の天才」「二代目海老原博幸としてデビューさせる」

気づけば既成事実で周囲を固められ、具志堅は逃げ場をなくしていた。

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協栄ジムに具志堅が搭乗した便名を告げたのは、那覇空港まで彼を送った下宿の主、上原兄弟の三男、勝栄だった。

「空港の拉致」はいわば作られた伝説で、具志堅が知らなかったはずはないという声もあった。だが、本人は否定する。

「いや。だって荷物は全部拓大の合宿所に送っていたんですよ。飛行機のチケット代は拓大の監督がポケットマネーで、それも奥さんの実家に借りたお金だったと聞きました。それが本当に申し訳なくてね」

面目を失ったのは具志堅の拓大進学に尽力した興南ボクシング部監督の金城眞吉や沖縄ボクシング連盟の仲本盛次である。上原兄弟の引き抜きで生じた日大と沖縄の確執はアマとプロの全面的断絶に拡大する。

具志堅を「100年に1人」と風呂敷を広げた金平に、仲本は「沖縄では4年に1人ぐらいだ」と反発したという。そこに沖縄ボクシング界の矜持(きょうじ)と悔しさがにじみ出ている。

その後の具志堅の活躍をみれば金平の慧眼(けいがん)に軍配が上がるのだろうが、後にウエルター級日本王者となる亀田昭雄は「200年に1人の天才」と売り出されており、金平が宣伝で口にする「年数」に大した根拠があったわけではないのだろう。

「二代目海老原博幸」については若干の補足を要する。

野口ジムのボクサーだった金平は東京・恵比寿でとんかつ店「とんキン」を営んでいた。昭和34年のことだ。「見習募集。ボクシングもできるよ」という店の貼り紙をみてヒョロヒョロの青年が戸を開けた。映画「傷だらけの栄光」に感化され家出してきた後の世界王者、海老原だった。才能にほれ込み店を閉じて2人で立ち上げたのが「協栄ジム」の前身である。

「彼は協栄の長男。俺にとって海老原の名は特別なんだ。だから、何かの形でその名を残したかった」。これは生前の金平から直接聞いた。業界の悪役金平の、意外な一面だった。

ただし二代目襲名の話は当の海老原が首を縦に振らず、頓挫した。海老原の反対がなければ世界王者「具志堅用高」は、誕生していなかった。

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こうして具志堅のプロボクサーとしての生活が始まった。住居はとりあえず、上原兄弟が借りていた四谷のアパートに転がり込むことになった。沖縄時代の銭湯「若松湯」に続き、上京後も上原家の居候である。

デビューは49年5月28日、後楽園ホール。牧公一(田辺)が相手のフライ級4回戦だった。メインの上原兄弟は共に快勝したが、前座の具志堅はかろうじて判定で勝った。牧も後にフライ級日本王者となる逸材だが、殿堂入り世界王者のデビューとしては、やや冴(さ)えない。

なんとか初白星を挙げた具志堅は沖縄に飛び、那覇市消防本部に金城を訪ねた。無断のプロ入りをわびるためだ。「次は世界チャンピオンになって帰ってきます」と何度も頭を下げる具志堅を金城は受け入れた。約束はわずか2年後に果たされる。(別府育郎)

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