沖縄復帰50年

「ゆいまーるの心」胸に橋渡し役に 集団就職で本土に渡った若者たち

川崎を中心に琉球舞踊の普及に携わる松田良一(左)、美律枝さん夫婦。沖縄本土復帰前に良一さんが使っていたパスポートを見ながら、当時を懐かしんでいた=4月29日、川崎市(浅上あゆみ撮影)
川崎を中心に琉球舞踊の普及に携わる松田良一(左)、美律枝さん夫婦。沖縄本土復帰前に良一さんが使っていたパスポートを見ながら、当時を懐かしんでいた=4月29日、川崎市(浅上あゆみ撮影)

50年前の本土復帰に前後し、沖縄の多くの若者たちが集団就職などで関東や関西の都会を目指した。沖縄文化への理解が乏しく、好奇の目にさらされながら、同郷の仲間を心のよりどころにし、激動の高度成長期を生き抜いてきた。本土復帰から15日で50年。「『ゆいまーる』(沖縄の方言で、結びつきの意味)の心」を胸に抱き、今も文化の橋渡し役を担っている。(浅上あゆみ、写真も)

昭和49年春。2泊3日のフェリーの旅を終え、東京・晴海埠頭(ふとう)に降り立った松田美律枝(みつえ)さん(68)は、じめっとした空気を肌で感じた。「沖縄の青い海、晴れた空とは違うなぁ」。期待と不安が入り交じった感情を半世紀たった今でも鮮明に思い出す。

沖縄県北中城村(きたなかぐすくそん)出身で、10人きょうだいの4番目に生まれた。高校生だった47年5月に本土復帰を経験し、49年3月に卒業した。担任教諭から川崎市内の電機メーカーの部品工場を紹介され、集団就職で海を渡った。19歳の春だった。

復帰から2年近くたっても、多くの国民は沖縄の文化や生活への理解が乏しかった。沖縄で日常的に日本語を使っていたが、職場では「英語で話すの?」と聞かれたこともあった。

美律枝さんは上京前、本や教科書で東京の文化を学んでいたため、「沖縄では1、2月に咲く桜が、東京では入学式の季節に咲くものだと私は知っているのに、本土の人たちは沖縄のことを何も知らないんだなと思った」と苦笑する。

職場の寮で、両親への手紙を沖縄の方言で書いていると、同僚から「なんて書いてあるの?」と尋ねられたが、「教えないよ」と得意げに言い返した。「好奇の目を向けられていても、故郷に誇りを持っていた」(美律枝さん)

×××

沖縄では復帰運動に参加することもあった。復帰とともに通貨がドルから円に切り替わり、両親がドルを抱えて交換所に行ったのも覚えている。ただ、「うれしいとか感動とかそういう感情はなかった。復帰運動の熱気がすごかった分、みんな途方に暮れたような感じだった」と振り返る。

休日の楽しみは、16歳で習い始めた琉球舞踊。就職後も職場から紹介された先生の下で継続し、屋我地(やがじ)島(沖縄県名護市)出身の夫、良一さん(70)と出会ったのも踊りの稽古を通じてだった。

良一さんは復帰前年の46年、ラジエーターの製造工場への集団就職で上京。当時は本土との往来にパスポートが必要で、今も保管するパスポートには日本への「入国」、日本からの「出国」を示すスタンプが残されている。

沖縄出身者への厳しい視線を感じることもあった。沖縄出身者同士が飲食店で方言を使ってけんかをしていると、次の日、店には「沖縄県人お断り」と書かれた張り紙が張られていたのを見たという。

×××

沖縄出身者に対する見方は、この20年余りで急激に変わった。NHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」(平成13年)で沖縄の文化が知れ渡り、安室奈美恵さんら人気ミュージシャンの影響もあり、「沖縄にあこがれを持つ若者も増えたと感じる」(美律枝さん)。

3人の子供に恵まれた松田さん夫婦。〝沖縄2世〟の長女は琉球舞踊、次男は集団演舞「エイサー」を習うなど沖縄文化にも親しんだ。「周囲からは『沖縄にゆかりがあるなんていいね』と羨(うらや)ましがられる」と、美律枝さんは笑う。

「復帰後すぐに沖縄の文化が受け入れられたわけではない。長い年月をかけて徐々に浸透し、最近は世界でも認められるまでになった」。夫婦はこう口をそろえ、これからも故郷の舞を多くの人に届けることを心に誓っている。

会員限定記事会員サービス詳細