渡海(とかい) 二
九月二十四日。弘中隆兼(たかかね)は――船の上で、苛立(いらだ)っていた。
永興寺(ようこうじ)を引きずっているのでない。原因は、岩次(いわじ)。
陶(すえ)軍二万七千の中でもっとも渡海(とかい)がおそかったのは弘中勢五百だった。
陶の大軍には奥深き山から出てきた、水軍を全くもたぬ武士が多分にふくまれていた。この男たちを陶水軍、三浦水軍、弘中水軍などにわり振る配船の段取りが、隆兼にゆだねられている。さらに必要な物資の手配、廻漕(かいそう)、渡海途中の味方に元就(もとなり)が奇襲をかけないかの用心も、隆兼の仕事だった。