渡海(とかい) 一
冷たい敗北感に打ちのめされる隆兼(たかかね)だった。
元就(もとなり)本人の「厳島(いつくしま)を取られるとまずい」という言葉――その言葉は天野慶安(けいあん)や安芸(あき)に潜った外聞(とぎき)によって陶(すえ)まではこばれた――、己斐(こい)、新里(にいざと)が城将をつとめている事実、この両名が味方に仕掛けてくる煩わしい調略、「厳島を攻めて下されば、毛利に反旗を翻し、吉田郡山(こおりやま)城を攻めます」という毛利家重臣、櫻尾(さくらお)城主・桂元澄(かつらもとずみ)の言葉、厳島という島の冨力、いくつもの要素が磁石となって、晴賢(はるかた)を厳島に引き寄せていた。
だが隆兼は最後の一つ以外は全て毛利の調略の産物と見ている。
永興寺(ようこうじ)から夜道を中津の屋敷にかえる途中、隆兼は隣に馬を並べた隆助に告げている。