拳闘の島 沖縄復帰50年

(11)元WBA世界王者・上原康恒 王様の寵愛と五輪落選

日大ボクシング部の総帥、柴田勝治氏は「王様」と呼ばれていた
日大ボクシング部の総帥、柴田勝治氏は「王様」と呼ばれていた

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日本大学に進学した上原兄弟は快進撃を続けていた。上原家の四男、康恒はライト級、ライトウエルター級の2階級で全日本王者となり、五男の晴治もフェザー級の全日本を制し、アマチュアの兄弟王者となった。

日大ボクシング部の監督は川島五郎だった。後に長く日本ボクシング連盟の会長を務める大物だ。さらにその上には総帥、柴田勝治の存在があった。こちらは後に日本オリンピック委員会(JOC)委員長や日大本体の理事長も務める。アマチュアスポーツ界の巨頭である。

部員らは柴田を「王様」と呼んでいた。王様はとりわけ、康恒の強打と人柄を愛した。

「他の部員が合宿所で食事をとっているのに、俺だけ隣接する王様の自宅に毎日呼ばれて一緒に食べるんだ。実は柴田家の養子に入る話もあった。卒業後の指導者の座や、教授で大学に残る約束もあった。そのままいれば、相撲部の監督から理事長になった田中英寿のライバルになったかもしれないね」

実際に柴田夫人の葬儀では、康恒が遺影を持った。それほど愛されたのに、王様の期待を裏切ることになる。

■ ■

昭和47年5月15日、沖縄の施政権は米国から正式に日本に返還された。同年9月に開催されるミュンヘン五輪は復帰後最初の大イベントである。

沖縄から初の五輪出場、金メダルの獲得で慶事に花を添えてほしいと県民の期待を一身に集めていたのが、「沖縄の星」と呼ばれた康恒だった。

ところが康恒は、五輪代表決定戦を兼ねた全日本選手権で専修大学の風間清に敗れ、出場を逃してしまう。後にプロでもライト級の日本チャンピオンとなり、世界タイトルにも挑戦する、バトルホーク風間である。

「風間は足が速くてね、逃してしまった。減量もうまくいかなかったのかな。もう沖縄の人たちに申し訳なくてね。合わす顔がないなと」

兄に続いて晴治も五輪代表を逃す。不思議な選考もあった。康恒に勝った風間の名が代表の名簿になかったのだ。ミュンヘン五輪に日本選手団はライト級の代表不在のまま臨んだ。そこに絶対的実力者だった柴田の、康恒落選に対する深い失望と怒りをみる関係者もいた。

ミュンヘン五輪へは日大からライトフライ級の新垣吉光が沖縄出身初の代表選手として出場したが、1回戦で敗退した。

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合宿所で失意に沈む康恒に電話が入った。協栄ジムのマネジャー、高橋勝郎だった。「ミュンヘンへの道が絶たれて、がっかりしているんだろう。食事でもごちそうするから」という誘いだった。

喫茶店で会った。高橋とは、これが初めてではない。度々ステーキなどをごちそうになり、ジムにも遊びに行っていた。現役日本王者のスパーリングの相手を務め、ダウン寸前まで打ち込んだこともある。

スパーリング・パートナーでは1ラウンドあたり1万円をもらっていた。闇バイトである。70万円ぐらい貯(た)まったから、船旅が当たり前の時代にノースウエスト機で帰省した。父親から「盗んだ金ではないか」と疑われたこともある。東京に戻る際には王様へのおみやげに、免税店で木箱に入った高級ブランデーを買った。こうした特別扱いも、協栄ジム会長、金平正紀の深謀遠慮だったのだろう。

喫茶店で高橋は「会長があなたと契約したがっている」と切り出した。即答を避けて帰省した康恒を追うように、金平が沖縄にやってきた。ホテルで会った金平は、父親の前に現金千数百万円を積み上げて、契約金だといった。

「親父(おやじ)が驚いちゃってね。こっちも、またモントリオール五輪まで4年待つのも大変だな、と考えて『じゃあ、俺、プロに行くわ。これまでかけたいろいろな面倒は、これで勘弁してくれ』といって、その現金を父親に預けた」

激怒したのは日大である。(別府育郎)

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