本郷和人の日本史ナナメ読み

文武両道の名将だった景時 歴史の中の「悪役」

江戸後期の浮世絵師、勝川春亭が描いた巴御前 (東京都立図書館蔵)
江戸後期の浮世絵師、勝川春亭が描いた巴御前 (東京都立図書館蔵)

梶原景時のことに先月触れましたが、何が言いたいのかというと、かれが悪役になったのは、室町時代から、ということです。室町時代に源義経を主人公とする『義経記(ぎけいき)』が書かれて大当たりとなったのですが、この時に景時は義経を陥れるイヤなヤツとして造形されました。ですから、それまでの景時はかならずしも悪役、というふうには描かれていません。たとえば『曽我物語』。幼い曽我兄弟の排除を頼朝が言いだし、有力な御家人が次々に助命を願い出るシーンがあるのですが、その場面の景時は、千葉常胤(つねたね)や和田義盛とともに、兄弟の助命を願っています。

史実でいうと、城氏の反乱です。建仁元(1201)年正月、越後の有力武士、城長茂(ながもち)が京において幕府打倒の兵を挙げ、本領・越後でも甥(おい)の城資盛が反乱を起こしましたが、いずれもが幕府軍によって鎮圧されました。城氏は木曽義仲と戦って敗北したことをきっかけに落魄(らくはく)していたところを、景時の援助を得て幕府御家人に列していました。城氏はその恩義を忘れず、景時のかたきを討つために挙兵したと考えられています。なお、この乱で城長茂の妹、板(はん)額(がく)御前が女武者として奮戦しているのは有名ですね。

もう一つ、この乱に際し、藤原高衡(たかひら)が反幕分子として討たれているのも見逃せません。高衡は藤原秀衡の四男。奥州藤原氏の生き残りで、景時の庇護(ひご)のもとにありました。景時は折を見て、彼の御家人への取り立てを将軍に進言しようともくろんでいたのです。

養和元(1181)年、平家政権は奥州藤原氏、越後城氏を正式な国司、つまりそれぞれ陸奥守と越後守に任命しました。国司への任官という恩を与えて、源頼朝・木曽義仲ら源氏勢力を牽制(けんせい)しようとしたのです。京都の貴族は田舎者に官職を与えたということで「天下の恥」と評しましたが、両者はそれほどまでに実力を蓄えた存在でした。ですから、両者を庇護して御家人への登用が成功していれば、それだけで景時は幕府内で多大な発言力を得たことでしょう。

では肝心要の源平の戦いに際して、景時はどのように行動していたでしょうか。寿永3(1184)年正月、梶原一族は源義仲との宇治川の戦いに参陣。源義経配下の嫡男・景季は名馬・磨墨(するすみ)に騎乗して佐々木高綱(名馬・生月(いけづき)に騎乗)と先陣を争いました。先陣の誉れを得たのは高綱ですが、景季もまた、武名を上げました。戦後、景時は戦勝を鎌倉に伝えましたが、その報告書は他の武将に比べてたいへん良くできていて、頼朝から事務能力の高さを称揚されます。

同年2月7日の一ノ谷の戦いでは、初めは景時が義経づきの軍(いくさ)奉行になっていたのですが、互いに気が合わず、範頼づきだった土肥実平とポストを交代しています。主力である範頼軍に属した景時、景季父子は平知盛の軍勢を相手に大いに奮戦して「梶原の二度駆け」と呼ばれる武勲を挙げました。

『平家物語』によれば景時の次男の景高が一騎駆けして敵中に突入。これを救わんと景時・景季も敵陣へ攻め入り敵陣を打ち破りますが、今度は景季が深入りしすぎて戻れなくなりました。景時は子を見捨てることができようかと涙を流し、再び敵陣に突入して命を惜しまず戦いました。これが「梶原の二度駆け」です。『源平盛衰記』によれば、このときに景季は箙(えびら)に梅の花咲く枝を挿して戦っていて、坂東武者にも雅(みやび)を解する者がいると平家方からも称賛を浴びたそうです。結局、景季は平重衡を捕える手柄を立てました。

そういえば、景季は「梶原源太景季」と表記されます。源太とは「源氏の太郎くん」のこと。景季は景時の長男ですので太郎はいいとして、源はおかしい。梶原氏は平氏ですから、平太であるべきです。これはどうしてかというと、景季は源頼朝の猶子(ゆうし)だったのではないか、とぼくは師匠の五味文彦に教わりました。納得できる解釈ですね。

この時期の景時は土肥実平と組んでの活動が目立ちます。本当は侍所長官と副長官ということで、和田義盛と対になるはずですが。義盛に管理能力なしとの評価で、実平が登用されたのか。それとも義盛は景時と実平をまとめる、一つ上位に位置していたか。どうも前者のような気がしてなりません。

一ノ谷の戦いの後には、景時は土肥実平とともに当時の最前線、播磨・備前・美作・備中・備後5カ国の守護に任じられました。より具体的には、景時は播磨と美作の武士の統轄(とうかつ)に当たったと考えられています。

同年4月、平重衡を鎌倉に護送した後に、景時は直ちに土肥実平と上洛して平氏所領の没収など占領地の運営に当たります。8月、平氏の後背をつくために範頼が中国地方経由で九州に出発します。頼朝は範頼に対し、遠征では景時と実平によく相談するよう命じています。

このあと、話はいよいよ有名な「逆櫓(さかろ)」の論争になりますが、これについては来月にお話ししましょう。

【プロフィル】

ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

■巴御前

生没年未詳。板額御前の絵は適当なものがなかったため、同じ女武者である巴御前の絵を掲げる。巴は木曽義仲のもっとも信頼できる部下、樋口兼光・今井兼平兄弟の妹とも、樋口兼光の娘ともいわれる。容姿が美しく義仲の愛人である上に、弓の技量に優れ、大力で、勇士にまさる武者働きをしたという。歴史書の『吾妻鏡』には登場しておらず、彼女の存在はフィクションかもしれない。ただし、城氏の板額御前も弓を得意とする女武者であったといわれ、武家の女性が武芸に励んで戦場にも出馬するということが、当時の、特定の地域にはあったのかもしれない。現代の女子アスリートの力強さを想起すれば、それは単なる絵空事ではなかっただろう。

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