拳闘の島 沖縄復帰50年

(10)殿堂入り世界王者・具志堅用高 本土復帰とインターハイ優勝

昭和48年、インターハイのモスキート級で優勝した具志堅用高(右)
昭和48年、インターハイのモスキート級で優勝した具志堅用高(右)

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時はまさに復帰前夜だった。

具志堅用高が興南高校に入学した2カ月後の昭和46年6月、日米間で「沖縄返還協定」が調印された。前年12月にはいわゆるコザ暴動があり、反基地闘争は過激化の一途をたどった。

具志堅はいう。

「沖縄は随分怖いところだとみられていたんじゃないかな。ニュースでは石を投げているところや、燃えている車の映像ばかり流されていた。出ていけとか、返せとか、けんかばかりしていると思われていた」

実際に沖縄で暮らす中で、騒然とした空気はそれほど切実に感じていたわけではない。

47年5月15日午前0時、沖縄中に日本復帰を祝うサイレンが鳴り響き、港に停泊する全ての船舶は汽笛を鳴らした。

日本政府と沖縄県主催の「沖縄復帰記念式典」が東京と沖縄で同時開催された一方で、那覇市の与儀公園では沖縄県祖国復帰協議会主催の「沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒5・15県民総決起大会」が開かれた。

具志堅は高校2年の16歳となっていたが、記念日には「なんか関係者が騒いでいたかな」という程度の感慨しか持ち合わせていない。

いとこの具志堅用一は休暇で専門学校に通う東京から帰省していた。東京に戻る船に乗り、晴海埠頭(ふとう)で下船時にパスポートを提示すると、「もういらないんだよ」といわれた。

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47年夏、具志堅は山形県酒田市で行われたインターハイに沖縄代表として出場した。パスポートを準備していたが、金城眞吉監督から「いらなくなった」といわれた。

2泊3日の船旅で晴海埠頭に着き、上野駅から夜行列車に乗って酒田を目指した。

山形では「日本人だと思われなかったみたいでね。今はみんな、沖縄でも内地でも同じ顔をしているけど、当時は顔は濃いし、色は黒いし、年も上に見られて年齢を疑われた。英語で話しているのか、と聞かれたこともあった」という。

現実に当時はまだ、沖縄・奄美の出身者がアパートを借りられないなどの差別があった。多くは内地の側の無知による。

大会では、ボクシングを始めて1年足らずの具志堅が、モスキート級で準優勝した。

金城監督による指導で身につけたサウスポーのワンツーや、攻撃的ファイトスタイル、銭湯「若松湯」の薪(まき)割りやタイル磨きで上原勝栄に鍛えられた基礎体力、さらには石垣島の故郷で親孝行のためにカツオを運んだ腕力やバランス感覚といった全てが急成長を支えた。

翌年、3年のインターハイでは船で神戸港に渡り、岐阜県で行われたインターハイのモスキート級で全国優勝を果たした。後に世界を席巻する具志堅の、これが初タイトルである。

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インターハイでの2年連続の活躍は新聞にも大きく掲載され、石垣島の家族にも知られるようになった。

同時に高校日本一のタイトルで、内地のボクシング界が具志堅の争奪戦に乗り出した。金城監督や沖縄ボクシング連盟の仲本盛次理事長は「モントリオール五輪の金メダルを目指せ」と進学を勧めた。「若松湯」の上原勝栄は「すぐにプロに行け」と譲らない。母親のツネは、ボクシングを続けること自体に強く反対していた。

いとこの用一と、すでにプロ入りしていた先輩の仲井真重次、それに具志堅の3人で進路の相談をしたこともあった。

用一は「大学を出ていれば体育教師の道もある」と進学を勧めた。仲井真は「大学で覚えるのは酒とたばこだけだ」と反対し、結論が出ない。

最終的には金城の強い希望と説得に父親の用敬が「進学」に傾き、拓殖大学が学費の免除を申し出て進路は決まった。荷物を拓大の合宿所に送り、大学側から送られてきたチケットを握りしめ、具志堅は那覇空港に向かった。金城や仲本の母校である日本大学が争奪戦に加わらなかった理由は、後述する。(別府育郎)

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