東京特派員

湯浅博 アーレントを読むべき理由

こんな雨の日は、積んどく状態だった本を抜き出して、「どこかの名曲喫茶に籠もろう」と考えた。

かつてはどこの繁華街でも、クラシック音楽を流す名曲喫茶があったが、いまは都内でも数えるほどしかない。しかも、武漢ウイルスのあおりで、近頃は休んだままの店が多い。

思いのままに国分寺の「でんえん」を訪ねてみたが、やはり休みだった。地下鉄丸ノ内線に乗り換えて、タンノイのスピーカーが構える本郷三丁目の「カデンツァ」へと転戦してみた。が、ここも人の気配がなく真っ暗だ。持参した読みさしの古本を哀れんだ。『全体主義の起源』を抱えてきたものの、「またも挫折かな」と著者のハンナ・アーレントに申し訳ない気分だ。

米国人の作家で『民主主義の夕暮れ』の著者、アン・アップルバウム氏がつい最近、米外交誌に「いま、ハンナ・アーレントを読むべき理由」を寄稿していたことに触発された。歴史の韻を踏むように「世界を全体主義が席巻している」と警告していたことが読みなおしの理由だ。

こんなときは神保町の「ラドリオ」か、と思い直した。昔からシャンソンの音楽が流れるけれど、シンプルなカップに泡立てた生クリームをのせたウインナ・コーヒーが何となくクラシック風だ。

喫茶店が全盛を誇っていた1960年代の終わり、仲間とよくここで熱い議論を重ねていた。大学のキャンパスは、「70年安保反対闘争」の怒号のようなオルグ演説に席巻され、全学で授業がストップしていた時代だ。全共闘系学生たちは、体制との距離を「主体性」という抽象表現で自己批判させ、「お前は何ヤツだ」と迫る。体制か反体制か。フランス映画の『ポリー・マグー お前は誰だ』に触発され、ウィリアム・クライン監督のおしゃれで毒のある視点が、学生たちを妙に引き付けた。

近くにある古本屋街の一角で、東京帝大教授、河合栄治郎の『学生に与う』とアーレントの『全体主義の起源』を手にしたのもその頃だ。

彼女は終戦から6年後に書いたこの本で、「ナツィ・ドイツの敗北によって物語の一部は終幕を迎えた」と述べた上で、「戦争の終結はロシアの全体主義的支配の終焉(しゅうえん)を招きはしなかった」と、右に続く左の全体主義に警戒を呼び掛けた。さらに、「もっと重大な問題は、全体主義の研究が中国で起こった」と、新たな始まりを予告した。

その延長としてアップルバウム氏はいま、世界の独裁政権が「イデオロギー的にも経済的にも、自由民主主義に挑戦するのに十分な富と影響力を蓄積している」と、アーレントの問題提起に応えている。ウクライナを侵略するロシアと、「制限なし」の契りを結ぶ中国は、彼女らが懸念する戦後自由主義秩序への反逆者なのである。

ロシアのプーチン大統領は、ウクライナは主権意識を持たず、「特別軍事作戦」という名の侵略ですぐに崩壊すると豪語した。しかし、ウクライナ国民は自主独立、民主的な祖国の防衛で結束した。彼らは独裁政権を拒否し、自由主義の理想のために命を落とす覚悟を決めている。

それは、アーレントより前の世代にあたる河合栄治郎の著作が熱く語った自由主義にも通底している。河合は昭和初期に跋扈(ばっこ)した「左の全体主義」マルキシズムに果敢に挑んだ。やがて軍部を中心とする「右の全体主義」ファシズムの台頭にも、危険を覚悟で立ち向かった。自由主義の核心は、違いへの寛容、個人の権利の尊重、法の支配であり、開かれている分だけ正も邪も入りやすい。そのスキを全体主義から攻撃される。河合が死を賭して守ろうとした「自由の気概」はいま、戦車やミサイルに身をていして戦うウクライナ市民に見ることができる。

ウクライナ戦争の教訓は、自由主義国にとって「優れた軍事力こそが平和の究極の保証人」(フランシス・フクヤマ)という悲しい現実なのかもしれない。「ラドリオ」に流れる音楽は甘い調べなのに、気が付けばすっかり苦いコーヒーになってしまった。(ゆあさ ひろし)

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