スポーツ茶論

甲子園とウクライナ 別府育郎

甲子園球場外観
甲子園球場外観

春の奄美は大騒ぎだった。いや島中を沸かせた野球熱は昨秋から続いていた。

島の子ばかりの大島高校野球部は、昨秋の鹿児島県大会で6試合中4試合のサヨナラ勝ちで優勝し、九州大会でも甲子園常連校を相手に逆転や引き分け再試合など劇的勝利の連続で準優勝を飾った。

九州を代表して出場した選抜甲子園大会では1回戦で明秀日立に敗れたものの、アルプススタンドは島から仕事を休んで駆けつけた人々や奄美出身者が多い兵庫県尼崎市からの応援で大活況となった。

島では大高(だいこう)の略称で親しまれる。筆者にとっては、父や叔父、いとこらの母校でもある。明秀日立戦時は島の目抜き通りで往来が途絶え、弁当店の臨時休業などで昼食の確保に苦労する老人施設もあったという。島の誰もが、甲子園に至る大高野球部のドラマについて、驚くほど詳しかった。

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奄美は相撲が盛んな島でもある。角界では鹿児島県出身力士が北海道や東北各県を数で上回るようになり、その約半数は奄美の出身という。島の年寄りは、誰がどこの子か本当によく知っている。

運動会でわが子に声援を送り、野球や相撲で地元の選手を応援する。徒競走の児童も選手や力士も期待に応えてこれに報いたい。勝てばうれしく、負ければ悔しい。極めて自然な感情である。

甲子園で勝利をたたえて校歌が流れるのは、そうした選手と地域を結ぶ象徴的シーンといえる。オリンピックの表彰式で流れる国歌や掲揚される国旗もその延長上にあるはずだが、なぜか五輪では国旗や国歌が白眼視される。

オリンピック憲章は「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での競技者間の競争であり、国家間の競争ではない」とうたっている。五輪における国旗国歌の否定論者が頼みとする一節であり、過度の国威発揚をいましめたものだろうが、自然な応援感情まで否定するものではあるまい。

それぞれの国民が国の代表に声援を送り、選手はその期待を背に競う。国旗や国歌がこれを象徴してもいいではないか。国とは故郷である。

憲章を金科玉条として国家間競争を全否定するなら、開会式における国別の入場行進もやめればいい。国際オリンピック委員会(IOC)が組織的ドーピングの罰則としてロシアに国旗国歌の使用を禁じているのは、その意義を認めているからだろう。

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北京冬季五輪後、気になる記事があった。大会を振り返るコラムで、祖国の平和を訴えるウクライナ選手に「競技で祖国を勇気づけたいという思いは理解できる」としながら「ただ一方で思うのはスポーツは本来、個人の活動だ」とし、「戦争や紛争が無意識のうちに『国のため』に戦うことを強いたのだとしたら、それはスポーツ本来の姿ではない」と結んでいた。

悩ましい一文だった。戦争がスポーツ本来の姿を奪っているという問題意識には同感だが、国の存在の否定に要点があるなら首を傾(かし)げる。

昨秋の東京パラリンピックを思いだす。競泳100メートルバタフライ(視覚障害S11)で優勝した全盲の木村敬一は、表彰台で聴く君が代に体を折り、声をあげて泣いた。「日の丸を見ることはできないけど、君が代を聴くことはできるから」と後で聞いた。

かつて五輪の国旗国歌問題で、高名なスポーツ評論家は「表彰台で君が代を歌う金メダリストなど、ほとんどいなかった」と書いた。少なくとも、号泣する選手はいる。

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