遅ればせながら、1日に亡くなられた元サッカー日本代表監督、イビチャ・オシムさんについて書こうと思う。実は、オシムさんは関西とも縁がある。2つの話を紹介したい。
「大阪トーナメント」で2ゴール
1つ目は「大阪トーナメント」。1964年の東京五輪に出場した旧ユーゴスラビア代表の一員として来日したオシムさんが日本代表と戦った舞台は、同年に開場したばかりの長居陸上競技場(現ヤンマースタジアム長居)だった。まだ早稲田大学の学生だった釜本邦茂さんや、日本サッカー協会相談役の川淵三郎さんがいた日本代表は1-6の大敗を喫した。その敗戦をバネに、4年後のメキシコ五輪で日本サッカー界の金字塔ともいえる銅メダルを獲得するに至る物語は、今回の本筋ではない。
なぜ、日本とユーゴスラビアが長居陸上競技場で戦ったかといえば、東京五輪の準々決勝で敗れた4チームを集めた非公式の5-8位決定戦が関西(長居陸上競技場と西京極総合運動公園陸上競技場=現たけびしスタジアム京都)で開かれたからである。
その大会の名前が大阪トーナメントである。開催をめぐっては、今では考えられないほど大胆な関西サッカー界の働きかけがあった。五輪をきっかけに東京だけでなく関西も盛り上げたいと考えていた当時の関西サッカー協会理事長、川本泰三さんは関西も五輪の試合会場に含めてほしいと、五輪の組織委員会に持ち掛けた。ところが、組織委幹部から「東京五輪は箱根を越えない」と断られてしまう。