久保田勇夫の一筆両断

ウクライナ侵攻の意味するもの

久保田勇夫氏
久保田勇夫氏

2月24日、ロシアがウクライナに侵攻した。アメリカやイギリスの情報機関はその近々の可能性を伝えていたが、当のウクライナを含め多くの国にとっては予想外の出来事であり、後の急激な展開や進捗(しんちょく)のはかばかしくない停戦交渉などを前に、世界はその現状、もたらすであろう影響、今後の成り行きについてどう評価すべきか苦悩している。以下、欧米の信頼しうるマスコミの情報などをベースに最近の国際経済、政治を踏まえ、今後の方向を探ってみる。

大きい経済的な打撃

ロシアのウクライナ侵攻については、破壊された建物や焼けただれて放置された戦車などのテレビの画像を通じて、そのもたらした物理的な悲惨さは理解されているが、その現在及び将来の経済的な打撃、その負担の大きさは、十分に理解されているとは言い難い。

ウクライナから近隣諸国に逃れた避難民は500万人近くとされる。隣国のポーランドをはじめ、ドイツ、フランスなどこれらの人々を受け入れるいわゆる西欧諸国は、これらの人々に住居を提供し、就職の機会を与えるなどして生活を支えなければならない。わが国で近年の水害で家を失った人への対策が容易ならざることは、これまでよく知られている。類似の対応が100万単位の人を対象に求められるとすれば、負担が膨大なものであることは容易に推測できよう。

ヨーロッパにおけるエネルギー価格の高騰についても同様である。石油、ガス、石炭など、そのエネルギー供給の多くをロシアに頼ってきた西欧諸国は制裁措置として、あるいは将来の自国の安全保障の見地から、その依存度を急激に減らしつつある。この結果、これらの国のエネルギー価格は急速に上昇すると見込まれる。例えば英国では、この1年間に50%の上昇が見られたが、この秋までにはさらに50%上昇するのではないかといわれている。

こういう事態が世界経済に与える影響は相当深刻なはずである。それは世界の経済成長の大幅な低下を招く。またロシア及びウクライナが世界に供給してきた多くの一次産品価格の上昇による物価の大幅な上昇、ならびに後述するような、この地域が主たる供給者である一定の貴重な金属の減少に伴うサプライチェーンの弱体化を通じ、各種製造業の停滞をもたらす。世界がそういう環境にあることを十分認識しなければならない。

物価の上昇とサプライチェーンの脆弱化

ウクライナ及びロシアは世界のいわゆる第一次産品の重要な供給国である。原油については、ロシアは世界第3位の産出国である。天然ガスは世界第2位の産出国であり、ヨーロッパの総需要の約40%をまかなっている。一部の西欧諸国はその石炭に依存している。食料生産に関してもこの地域は重要である。ウクライナとロシアは世界の小麦粉の3分の1を輸出している。この地域は肥料の重要な供給地域でもある。これらの供給が減少したり、それが不安定となったりすることは経済の停滞要因であり、上昇傾向にある世界の物価をさらに押し上げることになる。

ことは物価にとどまらない。ウクライナはニッケルやチタン、パラジウム、アルミニウム、高価な鉄ベレットやネオンなどの化学ガスの重要な供給国である。これらは、例えばネオンが半導体チップの製造に不可欠であることにみられるように、現代の多くの産業に不可欠なものである。その供給の制約は関連業界のサプライチェーンの脆弱化をもたらす。結果、半導体関連産業、自動車産業など幅広い分野に悪影響を与えることとなる。半導体の円滑な供給が阻害されれば情報産業もその影響を免れない。これらは今後、比較的早い時期に、実体経済により(、、)明瞭な形で反映されることになろう。

変化しつつある世界の勢力地図

詳細は別の機会に譲るが、本件を追う過程で気づいたことが幾つかある。

第1は、ロシアのウクライナ侵攻は確かにプーチン大統領が引き起こしたものではあるが、これを導き、今日に至らしめた要因は他の多くの国にもあるということである。当のウクライナは1991年の独立以降も親ソ派と西欧派の対立が絶えず、その主導権を握るための抗争は次元の低いレベルで行われ、その過程で統治機構の質が低下していったようである。ゼレンスキー大統領もその政治、行政能力が評価されてその地位に就いたわけではなく、ある愛国劇の主人公役を演じて得た人気を背景に現在の地位にいるとされている。彼の劇団仲間も国政の責任者となったようであり、もしそうであれば、そういう体制のこの国が高度な政策を実施することは余程の工夫がないと難しいであろう。

西欧諸国についていえば、16年間ドイツを統治したメルケル前首相、フランスのマクロン大統領や前任者たちは近年、経済上の利益を重視し、アメリカなどの警告を無視してそのエネルギーのロシア依存を高めるなど、安全保障上の考慮を軽視する傾向があった。近年のロシアによるジョージア侵攻、シリアへの派兵、クリミア半島の併合などの不条理な行動に対しても微温的であった。

アメリカは、1990年代ソ連の解体とその後のエリツィン大統領の民主化方向への歩みに安心し、大統領が共和党のブッシュ氏から民主党のクリントン氏へ交代したこともあって、ロシアの民主化路線がいまだ不安定な時期にその積極的関与を停止したとされる。このことが後のプーチン大統領の誕生、専制路線の推進を可能にしたであろうことは容易に想像しうる。また先の米大統領選の際、トランプ大統領(当時)が自らの再選を目指してウクライナ政府に、時のバイデン候補の身内に対し捜査するよう圧力をかけ、拒否されると約束済みの同国への援助をとり止めたことが、ゼレンスキー大統領を対米不信に走らせたという。

第2は、世界の政治上の地図に変動がみられるということである。西欧諸国では結束が強まりつつある。スウェーデン、フィンランドはこれらの情勢をみてNATO入りを希望し、EUは、これまで消極的な反応を示していたウクライナの加盟について積極的に発言している。

アメリカについては、例えば軍隊を派遣するかどうか、航空機を提供するかどうかなど、この戦いにどの程度関与するかが戦争の今後を大きく左右することが明らかとなり、また、その主導する金融上の措置を含むロシアへの経済制裁措置が予想以上の「効果」を生むことが判明するなど、その国際的な地位の大きさが改めて確認された。

近年その国力の上昇が著しい中国について、実はその多くが、その貿易取引の最大の相手方がアメリカであること、第5世代(5G)移動通信システムをはじめとするその驚異的進歩を遂げてきた先端的技術の源泉がそうであることにみられるように、さまざまな形でアメリカに依存したものであることが明らかになってきた。私は世界も中国自身も、これまでその実力を過大評価してきたのではないかと考えているが、世界的にもそういう認識が強まってきているように思う。

以上、要するにロシアのウクライナ侵攻は、経済にとどまらず世界にさまざまな変化と多くの教訓を示しているように思う。

久保田勇夫(くぼた・いさお) 昭和17年生まれ。福岡県立修猷館高校、東京大法学部卒。オックスフォード大経済学修士。大蔵省(現財務省)に入省。国際金融局次長、関税局長、国土事務次官、都市基盤整備公団副総裁、ローン・スター・ジャパン・アクイジッションズ会長などを経て、平成18年6月に西日本シティ銀行頭取に就任。26年6月から令和3年6月まで会長。平成28年10月から西日本フィナンシャルホールディングス会長。

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