奈良時代初め(8世紀前半)、聖武天皇(701~756年)が造営し、一時は都とした後期難波宮(大阪市中央区)。その内裏(だいり)区画に、他の宮都では例がない建物があった。内裏正殿のすぐ南側に正面をふさぐように建てられた前殿。正殿前は前庭が広がっていることが多いが、前殿を設けた意図について、正殿から発せられる天皇からの指示を受ける官人らの施設だったとの論考を、小笠原好彦・滋賀大学名誉教授が、学術誌「明日への文化財」86号(文化財保存全国協議会)に発表し、注目されている。この造営後、各地に設けられた国衙(諸国の政庁)で、正殿と南側に近接する前殿という殿舎配置が確認されており、後期難波宮のシステムが伝播(でんぱ)した可能性も指摘される。
焼亡 宮の復興
聖武天皇は神亀3(726)年、播磨国の印南野(いなみの、兵庫県明石市・加古川市)への行幸から難波に戻ると、政権の中枢にいた藤原4兄弟(不比等の息子)の三男、宇合(うまかい、694~737年)を知造難波宮事(統括責任者)に任命、難波宮の造営を始めた。
難波宮は飛鳥時代の大化元(645)年、中大兄皇子(後の天智天皇)らが蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした「乙巳(いっし)の変」からの大化改新で、都を飛鳥から遷した「難波長柄豊崎宮(なにわながらとよさきのみや)」に始まる。都は再び飛鳥に戻るが、天武天皇は天武12(683)年、「都城や宮室は一カ所ということではなく、二、三カ所あるべき」という複都制を宣して、これを整備した(前期難波宮)。しかし、朱鳥元(686)年、大火災が発生し、一部の官衙(役所)を残して、中心部はことごとく焼け落ちたという。聖武朝の難波宮造営は、焼亡した難波宮(前期)の復興でもあった。