拳闘の島 沖縄復帰50年

(6) 琉球ジム会長・仲井真重次 野球への夢絶たれる

昭和43年夏の甲子園大会では4強入りした興南旋風が吹き荒れた
昭和43年夏の甲子園大会では4強入りした興南旋風が吹き荒れた

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ソニー・リストンらが戦う本場のボクシングを米軍放送のテレビで視聴することができた那覇とは事情が異なり、石垣島のテレビでみることができたスポーツは、ほぼ野球と相撲に限られていた。仲井真重次もボクシングをみたことはなく、自然と野球に親しむようになった。

集落の仲間を集めての野球ごっこに始まり、石垣中学では野球部に入ろうとしたが、すでに募集が終わっていた。仕方なく2年から入部した。

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ポジションはセンター。隣のレフトは同じ新川に住む具志堅用一が守った。具志堅用高のいとこである。具志堅家はかつて琉球諸島を支配した尚寧王(具志堅用志)にルーツがあるとされ、男児には「用」の字がつけられた。

「ぼくも足には自信があったのだけど、仲井真は俊足に加えて肩が強くてね。すごいバックホームを投げていた」(具志堅用一)。これをみた監督が「重次、ピッチャーをやってみろ」と投手にコンバートし、速球左腕の仲井真投手が誕生した。ボクシングに転向後も、仲井真の武器は左ストレートだった。

エース仲井真の快投もあり、全沖縄の大会でベスト4に勝ち進んだ。仲井真は野球で身を立てようと決心するが、興南高校に推薦で進んだ先輩らが言葉の問題でうまくいかず、ことごとく退部していた。

中学の監督は「お前らは興南にはいかさん」と怒って、島内に残ることを求めた。

具志堅用一は八重山商工高に受かって野球部で活躍したが、仲井真は同校の受験に失敗した。それならと集団就職で船に乗り、大阪に向かうことにしたのは、内地で球団のプロテストを受けるという、ひそかな目的もあったからだ。

大阪港に着いたときは船酔いでフラフラだった。パスポートを東大阪の会社に預け、翌日から電気関係の下請け工場で働いたが、まだ船に乗っているような気分だった。

サンケイアトムズの入団テストが藤井寺球場であることを知り、受けた。遠投で100メートルを投げたが、身長が170センチに届かず、落ちた。会社で沖縄出身の同僚と話していると先輩から「俺の悪口を言っているのか」と絡まれ、けんかとなった。

多くの沖縄出身者が最初に陥るトラブルは、言葉の問題である。くわえて復帰前の当時は、多くの沖縄出身者が「英語でしゃべってみろ」とからかわれた。仲井真もだ。

その夏、甲子園大会では興南高が4強入りして「興南旋風」を巻き起こした。このまま大阪にいても野球をする機会はなく、仲井真は沖縄に帰ろうと決めた。まず会社が管理するパスポートを取り戻さなくては帰れない。月給は3万円だった。高卒の社員は6万円。賃金の違いを社長に抗議すると「中卒だからだ」という。「では高校を出直してくる」と啖呵(たんか)をきって、パスポートを出させた。そのための談判だった。

沖縄に帰り、中学時代の実績が評価されて1年遅れで興南高に入学し、野球部に入った。だが前年の「旋風」人気で部員数が膨らみ、1年生は来る日も来る日も球拾いばかり。中学では自らの左腕で押さえ込んだ同級生が2年で先輩面していることも面白くなかった。結局、野球部をやめてしまう。

仲井真の就職による1年浪人と野球の夢断念は後々沖縄の、いや日本のボクシング界に大きな影響を与えることになる。

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野球をやめて特待生の優遇も消え、住むところもない。このままでは石垣に帰らなくてはならない。思案顔の仲井真に、クラスメートでボクシング部員の中眞茂が声をかけた。

「それなら体を鍛えるつもりでボクシング部に来いよ。ボクシングをやれば家賃も食費もただになる下宿を知っている」

それが上原兄弟の実家、銭湯「若松湯」だった。中眞とは後にジムの会長、マネジャーとして二人三脚で平仲信明を世界王者に育てることになる。(別府育郎)

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