拳闘の島 沖縄復帰50年

(5)琉球ジム会長・仲井真重次 石垣島のガキ大将

琉球ジムの仲井真重次会長=沖縄県北中城村
琉球ジムの仲井真重次会長=沖縄県北中城村

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仲井真重次は昭和27年5月15日、石垣市新川で生まれた。20歳の誕生日に沖縄の施政権は日本に返還され、70歳の誕生日に復帰50年の節目を迎える。

50年前、米ロサンゼルスでのプロデビューを控えた仲井真に、その日の記憶はない。「食うために戦うことで精いっぱいだったからね。ただ当時の沖縄では復帰した日本で最初に誕生するのは大臣か世界王者か、といわれていた。上原兄弟とともに、自分もその候補の一人だと思っていた」と話す。

その世界王者となった上原康恒もこう話す。「仲井真は強かったんだ。左ストレートの威力がすごくてね。素質では具志堅用高とも互角だったが、目を負傷して現役を続けられなくなった」。ロスではフライ級の仲井真が4階級上のフェザー級のリングに上がる無謀なマッチメークで後頭部を強打し、視神経をやられた。引退後も米国に残って本場でトレーナー修行を積み、帰国後は名トレーナー、エディ・タウンゼントに預けられて技術を学んだ。具志堅や上原のセコンドに立ち、独立後は沖縄のジムから初の世界王者、平仲明信を育てた。現在はキャンプ・フォスターのゲート前にある琉球ジム会長である。

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沖縄差別と一口にいうが、本島には奄美や離島差別があり、石垣の島内でも仲井真らが住む新川は他島からの入植者が多く、「寄留民(きりゅうみん)」と呼ばれてその対象となった。仲井真家も祖父の代にカツオの漁場を求めて慶良間から移り住んでいた。

ガキ大将だった仲井真の役目は、まず集落の年少の子供を守ることだ。やられっぱなしでは表通りを上を向いて歩けなくなる。沖縄の墓場は大きく、墓の前の広場が格好の決闘の場となった。同じ人数を出し合ってのけんかは最後に仲井真の出番となる。体は大きくなかったが、ほとんど負けた記憶はない。

勉強はしなかった。「学校に行くかばんの中には、飼っていたヤギの餌にする草刈り用の鎌しか入っていなかったな」。草刈りを手伝ってくれた仲間とは海で魚を釣り、山ではサトウキビをかじり、パイナップルをもいで食った。

時には米軍の駐屯地からも食料や備品を拝借した。ベトナム戦争が激しくなると西表島から演習帰りの部隊が石垣にも駐屯するようになった。島を去る際には缶詰類を砂地に埋めることを知った仲井真らは夜中に掘り出して自宅の軒下に隠した。中身はソーセージなどで、「これが最高のごちそうでね」。

ある日、米軍のヘリコプターが駐機していた。さぞうまいものを積んでいるだろうと深夜に駐屯地の金網の下を掘り、犬を連れた見回りの目を盗んで仲間数人と忍び込んだ。だがヘリにはお目当ての食べ物が見当たらない。手ぶらで帰るのもしゃくだとパラシュートや手近にあったものを抱えて逃げた。途中、仲間の一人が「これは何だ」と鉄の筒のひもを引くと、何かが飛び出して空中で炸裂(さくれつ)し、深夜の浜は真昼のような明るさとなった。照明弾だった。

「爆弾か、死んだか、と思ったさ。砂浜を必死で走って次の日は学校をさぼって山に隠れた。米軍や警察が調べるのは分かっていたからね。見つかった連中は大目玉をくらったよ」

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当時の仲井真を「にぃにぃ、にぃにぃ(兄貴)」と呼んで、どこまでもついてくる新川の小柄な少年の姿があった。3歳年下の、具志堅用高である。(別府育郎)

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