拳闘の島 沖縄復帰50年

(4)元興南高校監督・金城眞吉 名伯楽、具志堅から村田まで

最強ゴロフキンと死闘を演じた村田諒太(右)も金城眞吉監督の教え子だった =4月9日、さいたまスーパーアリーナ
最強ゴロフキンと死闘を演じた村田諒太(右)も金城眞吉監督の教え子だった =4月9日、さいたまスーパーアリーナ

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中央高校のインターハイ優勝で、上原康恒をみる周囲の目は変わった。「道を歩くと知らない人から頑張れよ、と声を掛けられてね。本当にスターみたいだった」。1学年下の弟、晴治はそんな康恒をみて「兄にできるなら俺にもできる」と思った。自分だって小学生のころから上の兄、勝栄の厳しい指導に耐え、大人や米兵とも戦ってきた。晴治の方が拳闘向きと言ってくれる人もいた。兄に引けをとるはずはなかった。

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晴治が入学した興南高にはボクシング部がなかった。野球部で捕手のポジションを争っていたが、やめた。校内で仲間と署名を集めて学校と掛け合い、ボクシング部を立ち上げた。

具志堅用高や(ピューマ)渡久地隆人、名護明彦ら多くの名選手を輩出する興南ボクシング部は、後にフリッパー上原の名でリングを沸かせる晴治がつくったのだった。

当初は指導者もなく、晴治がボクシング部のある沖縄工業高に出向いて指導法を習い、部員に伝えるところから始めた。そんな状況でも、晴治は昭和44年、長崎国体少年の部で康恒とともに沖縄代表に選ばれて少年団体の初優勝に貢献し、個人戦でもバンタム級で全国優勝を果たした。兄に劣ることなく、こちらも並外れて強かった。

晴治が3年のときに金城眞吉がコーチに就任し、翌年には監督となった。那覇市消防本部に勤めながらのボランティア監督だった。金城は日本大学ボクシング部出身で中央高監督の仲本盛次の後輩にあたる。この2人が、沖縄のアマボクシング界を牽引(けんいん)する両輪となった。金城は、先に挙げた興南部員の他にも沖縄水産高の浜田剛史や自身の母校、南部農林高の平仲明信らも直接指導した。名前を並べて気づくのは、ほとんどが好戦的で前進を止めないファイターばかりであるということだ。

仲本は東京五輪を目指したが、代表決定戦の準決勝で金メダリストとなる中央大の桜井孝雄に敗れて出場を逃した。日大の後輩、金城もメキシコ五輪を目指すが、銅メダリストとなる近畿大の森岡栄治ら内地の厚い壁に阻まれ、卒業後、沖縄に帰って指導者となることを選択した。当時の様子を、興南ボクシング部3代目の主将だった仲井真重次に聞いた。

「練習は厳しくておっかなかったけど、この子は怒っても仕方がないと思えば親を飲みに誘って諭すなど、ムチも打つがアメも与えるメリハリの利いた人だった。ガラス窓を鏡にシャドーを行い、教室の机といすを片付けて部員が手をつないで人垣のリングを作る。スパーリングでは、下がってきたら先輩でも容赦なく尻を蹴るよう監督に言われている。ロープが足を出すのだからたまらないよね。だから前に出るしかなかった」

金城の信条は「苦痛なくして勝利なし」「いばらなくして王座なし」。ライバルは中央高だが、日大での先輩後輩は絶対の関係で、監督同士の空気感からか、微妙な判定となると興南高は中央高に勝てない。「だから手数でポイントを稼ぐアマのスタイルではなく、倒して勝つしかなかったんだ」と仲井真は笑う。こうして、金城の超攻撃的スタイルは生まれた。

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仲本や金城の夢は金メダルだったが、有望な教え子はことごとくプロに走り、五輪は遠かった。金城は沖縄尚学高の監督を経て平成23年、東洋大の監督となる。大学職員だった村田諒太は金城の指導を得て翌年、ロンドン五輪のミドル級で優勝した。金城にとっては40年余の指導者生活でようやく手が届いた五輪の金メダルだった。村田はプロ転向後も世界王者となり、4月にはカザフスタンの英雄、ゴロフキンとの世界ミドル級統一戦で世紀の死闘を演じた。

現在は琉球ジムの会長である仲井真は、具志堅をボクシングに誘い、沖縄のジムから平仲を世界王者に育てた沖縄拳闘界のキーマンである。時代を昭和に戻し、沖縄復帰前後の仲井真の波乱の青年期を追う。(別府育郎)

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