拳闘の島 沖縄復帰50年

(3)元WBA世界王者・上原康恒 リングの猛烈ボーイ

コーナーで仲本盛次監督(右)の指示を受ける上原康恒(仲本さえさん提供)
コーナーで仲本盛次監督(右)の指示を受ける上原康恒(仲本さえさん提供)

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上原康恒は強かった。後の世界チャンピオンは中学ですでに大人の猛者らと戦い、米軍基地のリングではプロボクサー崩れの米兵とも拳(こぶし)を交わしてきた。ライト級を主戦場として体も大きく、まともに相手になる選手はなかなかいない。

沖縄高校に進み、ボクシング部に入部したが、強圧的な指導が肌に合わず、校内には新興暴力団の幹部子弟らが不良グループを形成していた。ひじ先まで入れ墨の同級生や制服の懐に刃物を隠し持つ者もいた。

物騒な校内で誰にも恭順の意を示さない上原は、教師からも先輩からも不良グループからも「生意気だ」とにらまれた。執拗(しつよう)な嫌がらせの末に教師から尻が赤くはれ上がるほど竹刀でたたかれ、もうがまんの限界とその先生を殴って1年の半ばで高校をやめた。

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パスポートを取って上京し、東京・蒲田で友人のアパートに転がり込んだ。町工場でアルバイトをしながら後楽園にあった田辺ジムに練習生として通った。ここでも現役の日本ランカーと互角以上に打ち合った。当時の田辺ジムには、漂泊の名トレーナー、エディ・タウンゼントがいた。エディは「ナイスボーイ、強いね。プロには高校を出てからでもなれるよ。一度、沖縄に帰りなさい」と上原に声をかけ、沖縄ボクシング連盟に電話を入れた。「沖縄にはすごい子がいるのね。ちゃんと引き取って高校を出してあげなさい」

電話を受けたのは、長く沖縄のアマチュアボクシング界を牽引(けんいん)することになる仲本盛次だった。仲本は校内の反対を押し切り、自らがボクシング部の監督を務める中央高に上原を編入させた。

「だからエディさんは俺の恩人なんだ。ていねいにボクシングを教えてくれたしね。それに仲本先生は人の長所短所を見極めるのがうまかった。それまでは力任せに打っていたけど、リラックスすることでパンチに切れとスピードが増すことを教えられた。いい先生だったな」

水を得た上原は、コザ市(現沖縄市)にあった中央高で実績を積み、昭和44年、群馬県伊勢崎市で行われたインターハイには主将として臨んだ。5階級で戦う団体戦ではバンタム級の比嘉幹士が肩を脱臼して以降の試合を棄権したため1試合は不戦敗となり、中央高は4戦中3勝しなくては次に進めない。

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