かつては鉄道の長旅に欠かせなかった「駅弁」。各地自慢の味覚がふんだんに詰め込まれているため、旅から離れても人気のグルメだ。そんな駅弁の「発祥の地」は、今のJR姫路駅(兵庫県姫路市)なのだという。時は明治22年、大日本帝国憲法が発布された年のこと。それから1世紀を経て、姫路駅に育まれた姫路発の駅弁文化は今も進化を続けている。
幕の内発祥
播州の中心地・姫路は古くから畿内と山陽・山陰を結ぶ交通の要衝。明治21年には山陽鉄道(現JR山陽線)が敷設され、駅もできた。この付近で飲食業を営んでいた竹田木八という人物が翌年、鉄道の乗客向けに弁当の提供を始めた。
「これに先立つ18年、宇都宮駅(栃木県)で握り飯を竹の皮でくるんだ弁当が発売されたんですが、姫路のほうは幕の内弁当。なのでこちらが『本格的な駅弁の元祖』とされるんです」
木八の孫に当たる竹田和義さん(73)が言う。竹田さんは、木八を創業者とする食品製造販売「まねき食品」で長く駅構内の営業部門を担当し、今は参与として社史編纂(へんさん)に携わる。日本初の駅弁は、どんな内容だったのか-。
「2重の折り詰めで、下は白米。上は鯛の塩焼きにだて巻き、焼きかまぼこなど13種類のおかずが入っていたそうです」。今より流通が未発達の時代、良質の米をはじめ海の幸や新鮮な野菜などを近場から楽に入手できる姫路で、幕の内駅弁が誕生したのは必然だったのかもしれない。
ただし、価格は12銭。当時、米1升が6銭だったからその倍だ。売れ行きは悪く、何人かいた共同経営者は去っていったという。
「木八は、妻が高級料亭の娘だったため、当初は料亭の折り詰めを駅弁として売っていたのではないか。料亭に支えられ、なんとかしのいでいたようです」
駅弁拡大
やがて世の中は日清、日露戦争へ。山陽鉄道は西へ延びるとともに、播但線や姫新線も順次開通。姫路には陸軍もあり、軍隊や鉄道建設に携わる人たちの鉄道利用も大幅に増え、駅弁の需要も伸びた。
「木八は、先見の明を持つ商売人でした。その後もうどんやそば、パン、アイスクリームなど何でも挑戦したようです」
当時、駅弁は「立ち売り」が主流で、売り子たちが肩から箱を提げてホームを行き来し、車内の乗客に向けて販売していた。だが列車の停車時間が短くなるとともに窓の開かない車両も増えるなどし、やがて立ち売りは姿を消した。
時は流れて令和の時代。新型コロナウイルス感染症の蔓延(まんえん)で、旅行や観光は自粛が求められ、飲食を伴う行事も敬遠されるなど、食品業界にとっては絶体絶命のピンチ。それでもまねき食品は受け身にならず、攻勢の手を緩めなかった。
家庭で作りたてが楽しめる冷食の駅弁に力を入れたり、昨年11月には、横浜名物のシューマイで知られる「崎陽軒」(横浜市)とのコラボレーションで「関西シウマイ弁当」を発売したり‥。独自の関西風アレンジを加えてヒット作となっている。これからも、まねきの駅弁から目が離せない-。
駅そば、ご当地グルメに
全国に根強いファンを持つ「えきそば」。和風のだしに中華そば風の麺が入った、姫路を代表するご当地グルメの一つだが、これも「まねき食品」が生みだした看板商品だ。
「えきそばも、もともとは駅弁の一形態でしたね」と竹田和義さんが言う。誕生は昭和24年。当初は弁当と同様、立ち売りが行われていたようで、のちにホーム上に売店が作られたが、列車内にどんぶりを持ち込む乗客も多かった。現在はJR西日本の「指導」もあり、「車内へは持ち込まないよう、お客さんにお願いしています」。
かつては、駅構内でしか買えなかったが、ネットのブロガーたちが火付け役となるなどして人気が上昇。駅の外にも提供店舗を増やし、カップ麺でも登場した。さらに駅弁と同様、えきそばにも冷食のバリエーションが誕生。さらに今年3月には、姫路風たこ焼きをトッピングした変わり種えきそばを発売した。えきそばの進化も止まらない⁉(小林宏之)
今年は日本の鉄道開業150年。新橋―横浜間の開通以降、各地に路線網が広がり、関西も個性あふれる鉄道を生み出してきた。関西の鉄道の「ナンバー1」にまつわる話題をみる。