千田嘉博のお城探偵

秘密の扉に土佐の侍の心 高知県・高知城

高知城の本丸。右から西多聞、廊下門と並び、左端が詰門。奥に見えるのが天守=高知市(筆者撮影)
高知城の本丸。右から西多聞、廊下門と並び、左端が詰門。奥に見えるのが天守=高知市(筆者撮影)

南国土佐の高知城は、天守が現存する12城のひとつである。さらに天守と本丸御殿の両方が残るという点では、わが国唯一の城である。ただし今残る高知城本丸御殿は特別な儀式や会議に用いたもので、日常の藩主の住まいと政庁は、二の丸の御殿が担っていた。

この城は標高45メートルの大高坂山にある。周囲を河川に囲まれた堅固な地であっただけでなく、河川を通じて海へも内陸部にもつながる交易の要地でもあった。そのため14世紀の南北朝時代には最初の山城が築かれていた。

大高坂山に本格的な築城を始めたのは戦国大名の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)で、1588(天正16)年にそれまで居城にしていた高知県南国市の岡豊(おこう)城から城を移した。この頃は豊臣政権期だったので、元親は畿内の城造りを取り入れた石垣造りの近世城郭を築こうとした。ところが周囲の低湿な環境や洪水のために工事は難航し、最終的には港を直接押さえる浦戸城を本拠にした。浦戸城は坂本龍馬像の立つ桂浜背後の山にあった。

関ケ原の戦いの翌年の1601(慶長6)年に長宗我部氏に替わって土佐の国主になった山内一豊は、改めて本拠を大高坂山と定めた。そして1603(慶長8)年には本丸や二の丸が完成したが、山麓の三の丸は湿地を埋め立てる難工事であったため、着工から10年ほどたった1611(慶長16)年にようやく完成した。

しかし、このときできた高知城は1727(享保12)年の大火災でほとんどが焼失し、1753(宝暦3)年まで26年をかけて再建した。だから今残る天守は1749(寛延2)年の再建と考えられている。

さて高知城を代表する城郭建築に、本丸と二の丸とを結んだ渡櫓門(わたりやぐらもん)「詰(つめ)門(もん)」がある。この建物の1階は門に、2階は廊下橋になっている。現在も2階の廊下橋を通って本丸と二の丸とを行き来できるので、その様子を体感できる。そして実際に2階を歩くと屋根や壁がある廊下そのものという感じである。

しかし江戸時代の詰門2階は、二の丸御殿で藩主と面会する家臣の待機部屋として用いていて、現状と内部の使い方は異なっていた。廊下内をよく観察してほしい。ふすまを立てた痕跡である敷居や鴨居(ふすまの上下を差し込んで滑らせた溝)を見つけられ、壁には床の間も発見できる。

板敷き廊下に思えた内部は、畳を敷いてふすまを立て、格式ある床の間も備えた部屋が並ぶ整った空間だった。このように注意して細部を観察すると、城歩きはもっと楽しくなる。

先日、特別な許可を得て詰門の1階に入って秘密の扉を開き、2階に抜ける階段を探険させていただいた。ここはあまりに狭くて急な階段なので非公開になっているが、詰門内部の上下階を結んだ緊急ルートを体感できた。一般に通れる2階廊下の床には、階段に通じる出入り口の戸が見えているので、ぜひ探してみてほしい。

高知城天守には先端を尖らせた鉄串を並べた「忍び返し」を設けていたように、詰門の秘密の扉は戦国の気風を受け継いだ土佐の侍の心を今に伝えている。

(城郭考古学者)

高知城 山内一豊が大高坂山に1601年に着工。河川に挟まれた場所だったことから、地名は当初、河中(こうち)(河内)山と呼ばれたが、後に高智山に字を改めたとされる。鷹城の別名もあり、瓦と壁の色が鷹の羽の色合いに似ていることが由来という。天守など15棟が国の重要文化財に指定されている。

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