拳闘の島 沖縄復帰50年

(2)元WBA世界王者・上原康恒 新聞配達員は朝ひもを引く

上原康恒のハードパンチは銭湯で鍛えられた
上原康恒のハードパンチは銭湯で鍛えられた

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那覇の街を一望する沖縄の象徴、首里城は令和元年10月31日未明の火災で正殿、北殿、南殿を全焼失した。復旧工事の間も観光拠点であることは変わらない。入り口の手前には「空手発祥の地・沖縄」と大書されたパネルがあり、格好の記念撮影スポットとなっている。

上原康恒は昭和25年10月12日、12人兄弟の四男として那覇市で生まれた。父も兄も空手家だった。最初の記憶は海である。今は人工海浜となっている「波の上」を目の前にみて育った。「海は大きくてね。海をみていると、自分も大きくなれるように感じていた」

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父は米軍の物資を扱っており、沖縄戦の焦土から復興途上の町で住宅開発の仕事も手がけた。康恒が小学校に上がるころには若狭町と松山町の境近くに銭湯「若松湯」を建てた。

後に小林流空手の師範となる三男の勝栄は米軍放送のテレビでボクシングに夢中になった。那覇市の一部では国内放送より早く米軍放送のテレビの視聴が可能で、当時のヒーローはヘビー級王者のソニー・リストンだった。リストンは後にローマ五輪金メダリストのカシアス・クレイ(モハメド・アリ)に王座を奪われるまで、最強クラスに君臨する。内地では見られなかった本場のボクシングに、上原家はいち早く触れていた。

根っからの格闘技好きである勝栄は考えた。「空手とボクシングはどちらが強いか」。実験台となったのが、康恒と五男の弟、晴治である。米軍から使い古したグローブやシューズを入手して脱衣所にサンドバッグを吊(つ)るした。基本練習を繰り返すと、すぐに実戦を始めた。相手には事欠かなかった。小学生のころは中学の不良と、中学では大人の漁師ややくざ者、空手家とも戦った。勝栄が見込んだ腕自慢に「弟がお前とけんかがしたいってさ」と声を掛ければ、大抵は乗ってきた。場所は空き地や父の会社の屋上で、社員らが勝敗に賭けることもあった。兄弟はグローブをはめた両の拳だけで戦い、足は使えない。約束を破れば、勝栄のパンチが飛んだ。

康恒はいう。「けんかもボクシングも好きじゃなかった。人を殴るのも嫌だった。勝っても手加減をすれば兄に怒られるしね。ただ、教えられた通りにやれば相手が倒れるのが面白かったのかな。けんかっ早くて、すごかったのは弟でね。それこそやる時は死んでもいいぐらいの気持ちで戦う。絶対にギブアップはしない。勝っても負けても、いつも血まみれさ」

晴治のファイトスタイルは、後にフリッパーを名乗るプロとなっても変わらず、ファンの熱狂的な支持を得た。

基地のパスを手に入れ、週末には普天間や嘉手納基地のリングに上がり、ボクサー崩れの米兵とも戦った。康恒は「30回ぐらいやって、1回も負けなかったな」という。慰問に訪れた伝説の世界王者、ロッキー・マルシアノには「君は強い。プロになればいい」と褒められたこともあるという。

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発祥の地である空手の拳と、米軍文化の交錯が、沖縄を拳闘の島に育てた。「スピードに勝るボクシングの方が実戦向き」と信じた勝栄は、兄弟に銭湯の営業終了後に風呂掃除と厳しい練習を課し、早朝は波の上から空港まで約4キロのロードワークを強いた。風呂のまき割りも、腰を落としてのタイル磨きも、全てがトレーニングに結びついた。「人の3倍練習しろ」「武器を持っていない同じ相手に2度負けることは許さない」。勝栄の指導は、徹底したスパルタ方式だった。

だが、深夜に及ぶ稽古の疲労で、兄弟は朝、起きることができない。勝栄は一計を案じ、新聞販売所にあることを頼んだ。

未明の5時、配達員は新聞をポストに入れると、横に垂れ下がったひもを引っ張る。

ひもは2階で寝る康恒の足首に結ばれている。これを合図に起床した康恒が晴治を起こし、ランニングに向かう。そんな日々が続いた。(別府育郎)

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