拳闘の島 沖縄復帰50年

(1)元WBA世界王者・上原康恒 「沖縄の星」と呼ばれて

現在の上原康恒さん。大きな拳が往年の強打を物語る=長野県軽井沢町
現在の上原康恒さん。大きな拳が往年の強打を物語る=長野県軽井沢町

静寂の日本武道館に裂帛(れっぱく)の気合が響き渡り、演武を終えた喜友名諒は畳の中央に正座して天井を見つめた。令和3年8月6日、東京オリンピックの空手、男子形の部門で2位に大差をつけ、喜友名は沖縄県勢初の五輪金メダルを首にかけた。

表彰台には母の遺影を右手に抱えて上がり、「沖縄の歴史に刻むことができてうれしい」「沖縄の子供たちにも夢をあきらめずに追いかけ続ければ達成できることを知ってもらえたと思う」と万感の表情で語った。

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上原康恒は長野県軽井沢町「YMテニスガーデン」でテレビ観戦していた。経営するテニスコートつきのペンションは新型コロナウイルス禍で開店休業中だった。

「それはうれしかったさ。空手には子供のころから接してきたけど、喜友名の気合はすごかった。本当に吸い込まれるようだった。絵に描いたような美しさだったね」

沖縄が米国の統治から日本に返還された半世紀前、「沖縄の星」と呼ばれ、沖縄初の五輪金メダルという夢を託されたのは他ならぬ自身だった。中量級のボクサーとして沖縄中央高校でインターハイ団体、個人の優勝で島民を熱狂させた。日本大学ではアマチュアの2年連続日本一に輝き、アジア大会でも表彰台に立ってミュンヘン五輪の優勝候補に挙げられていた。

「あのころ沖縄ではまだ、内地の人には勝てないっていうイメージが強かったんだ。だから高校生のときにインターハイで優勝し、大学でも日本一になって、沖縄の人たちから勇気をもらった、オリンピックも勝ってくれといわれ、期待がすごくてね。どこに行っても声をかけられてさ。もう大スターだったよ。だから自分は、1番にならないといけない。2番では絶対にだめなんだって思っていた。とにかく、死にものぐるいだったな。何回もやめようと思ったけど、周りからお前ならできる、あなたならできるっていわれ続けてさ。ボクシングを続けられたのは周囲の力が大きかったな」

五輪代表の座は逃したが、プロに転向してWBAスーパーフェザー級王者に輝く。初期の活躍と期待を報じたサンケイスポーツに、記者とのこんなやり取りがあった。

《酒、タバコは大嫌い。なら、残るは女だけか。が、意外。「女の裸なら見飽きてらあ」ときた。実家がお風呂屋(「若松湯」)なんだそうだ》

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ただの銭湯ではない。空手家の兄が米軍放送でボクシングに魅入られて脱衣所にサンドバッグを吊(つ)るし、営業時間外は道場とした。康恒の弟、晴治もフリッパー上原として日本王者となり、世界のベルトにも2度挑戦した。「ボクシングをやれば家賃も食事もただ」の誘い文句につられ、やがて仲井真重次が下宿する。

仲井真は石垣島の後輩、具志堅用高をボクシングと下宿に誘い、プロではトレーナーとして彼を世界王者に導いた。後には沖縄でジムを開設して世界王者、平仲明信を育てる。

世界タイトル13回防衛の金字塔、具志堅の活躍はご存じの通り。銭湯はボクシング好きの憧れの場となり、グローブをはめる機会を求めて集まる少年の中には、後の世界王者、友利正の姿もあった。そして彼らの活躍が、沖縄の日本復帰を象徴する。この銭湯をめぐる話から、物語を始めたい。(別府育郎)

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