日曜に書く

論説委員・森田景史 努力の矢印よ、どこを向く

乱取りの練習に励む柔道クラブの子供たち(竹之内秀介撮影)
乱取りの練習に励む柔道クラブの子供たち(竹之内秀介撮影)

人に知られたくない過去を、「黒歴史」と呼ぶらしい。

顔を覆いたくなるような、恥ずかしい経歴や言動を指すのだという。いまの若い人々がどの程度のものを黒く塗り潰したいと思うのか、50代の坂を上る筆者は知る由もない。

個人的には、それに類する過去がないわけでもない。中学の野球部にいた三十数年前、わが代のチームは不思議なほど勝運に見放されていた。

最上級となった中学2年の秋から3年の夏まで、公式戦と練習試合を合わせた26度の対外試合は、わずか2勝しかできなかった。勝率にして7分7厘。現実味に乏しい戦績を「黒歴史」と呼んでいいものか、いまひとつ自信が持てずにいる。

流した汗は報われるか

練習は厳しかった。腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット。うさぎ跳びで広い校庭を1周したこともあれば、学校の裏山を全部員による馬跳びで越えたこともある。3分間、サンドバッグを打ち続けるトレーニングでは何度も記憶が飛んだ。

わが代を教えたコーチは言っていた。「大事なのは持久力と、ボールを打つ瞬間のパンチ力だ」。その人に野球経験はない。本業はボクサーだった。

努力の矢印がダイヤモンドではなく四角いリングを向いていたのは明らかで、2勝できたことは、むしろ奇跡に近い。

それを「報われぬ汗」と諦めるには、当時の筆者は若すぎた。流した汗の量と結果は、どこかで帳尻が合うはずだと純粋に思い込んでいた。

打てない球を打つために。捕れない球を捕るために。さしずめ人を前に進ませる力は、昨日までの自分に勝ちたいという一念にほかならない。

小学生大会の廃止に思う

全日本柔道連盟(全柔連)がこの3月、小学生の全国大会の廃止を決めた。5、6年生が重量級と軽量級に分かれて競う、この年代では最高峰の大会だ。全柔連が関係者に宛てた通達には、こう書かれていた。

「事理弁別の能力が十分でない小学生が勝利至上主義に陥ることは、好ましくないものと考えます」

これを読んで思案する。「陥る」の主語は本当に「小学生」なのだろうか。

昨今の報道で浮かび上がるのは、大人たちの異様な前傾姿勢だ。指導者は子供に無理な減量を課し、危険な体勢からの技を教える。試合での判定に異を唱え、審判に暴言を浴びせる保護者もいたという。「人間教育」を掲げる柔道の現場で、R指定の必要な悲喜劇を大人たちが演じているという皮肉。筆者も柔道を取材する中で、そのような類の話を何度も耳にした。

こと団体戦に関しては、指導者が技の巧拙を問わず体の立派な子供を起用するため、正しい組み手を身に付けることなく大人になる―。2000年代に入り長く続いた重量級の低迷に、指導者がもたらす害を重ねる関係者もいた。

柔道人口の長期的な減少に、それらの事象がどう影響しているのかは定かでない。

全国には、それでも柔道が好きで汗を流す子供たちが大勢いる。昨日までできなかった技ができるようになる喜び。昨日まで歯が立たなかった相手に一矢を報いる喜び。そこには彼らを前に進ませる力がある。

大人が努力を傾けるべきなのは、子供の流す純度の高い汗に報いることだろう。小学生大会の廃止が、不純物に満ちた人々の「黒歴史」に蓋をするための方便でないことを願う。

大切にしたい「教材」

勝負事は競う相手がいて初めて成り立つ。その中で相手への敬意が生まれ、他人を思いやる心が芽生える。いわば人生の教材を「勝利至上主義」という大人の落書きで汚すのは惜しい。勝つための努力や工夫が罪なら、子供たちに「何もするな」と教えるに等しい。

流した汗が何かの形で報われる場はどの年代にも必要だ。子供たちの中に育つであろう自信や誇りの芽を守り続けるのは、大人の責任にほかならない。

筆者の場合、壊れた方位磁石を手にやみくもに努力を重ねていたことは認める。それでも中学時代をやり直す機会があるなら(同じコーチの指導は受けたくないが)、あの頃と同じ精力をもう一度、鍛錬に傾けると思う。汗が報われると信じて疑わない、そんな青臭い時代が人生にはあっていい。

勝率7分7厘の「黒歴史」も本稿で供養できた。人生には、このような帳尻の合わせ方もある。(もりた けいじ)

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