モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

(126)内奥の聖性に働きかける

シンボルスカ最晩年の詩集『瞬間』とグレツキの「悲歌のシンフォニー」
シンボルスカ最晩年の詩集『瞬間』とグレツキの「悲歌のシンフォニー」

人間の聖性に働きかける音楽

ひさしぶりにポーランドの作曲家、ヘンリク・グレツキ(1933~2010年)の交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」を聴いた。オーケストラとソプラノ独唱のための3楽章の作品だ。

第1楽章の歌詞は、磔刑(たっけい)に処せられた息子を抱き寄せる聖母マリアを連想させる母親の悲しみの言葉(聖十字架修道院に15世紀後半から伝わる哀歌「ウィソグラの歌」)、第2楽章は、第二次世界大戦中にナチスドイツの秘密国家警察(ゲシュタポ)に捕らえられた18歳の女性が独房の壁に刻んだ祈りの言葉、第3楽章は、ポーランド人がドイツを相手に、1919年から21年の間に起こした、3度にわたる武装蜂起で息子を殺された母親の嘆きの言葉(ポーランド南西部オポーレ地方の民謡)だという。

音楽はというと、グレゴリオ聖歌の音階構造である教会旋法によった定旋律がゆったりとしたテンポで繰り返され、その表情をたゆたうように変化させてゆく。ミニマル・ミュージックといってもよいだろう。76年に作曲され、デイビッド・ジンマン指揮ロンドン・シンフォニエッタとソプラノのドーン・アップショウが91年に録音したCDによって、世界中に知られるようになった。92年から93年にかけてのことだ。

その当時、私は「悲歌のシンフォニー」はもちろんのこと、グレツキの名前すら知らなかった。教えてくれたのは取材でお会いした音楽評論家の宇野功芳さんだった。94年にスペインのシロス修道院合唱団の「グレゴリアン・チャント」が世界中でヒットしたおり、声明(しょうみょう)のような地味な音楽がなぜ受け入れられたのか、宇野さんの考えを伺ったときのことだ。

「クラシックも含め音楽は隘路(あいろ)に入り込み、作りものめいて、いたずらに騒々しくなったり鋭くなったりしています。時は世紀末。人々は単純な祈りのようなものを求め始めたのかもしれません」と宇野さんは述べ、こう続けた。「そういえば数年前、ポーランドの作曲家、グレツキの『悲歌のシンフォニー』が世界中で大ヒットしました。この中でも教会旋法が使われていましたね」

取材後、さっそく購入して聴いた。冒頭はとても重苦しい。反復されるコントラバスの定旋律が、恐ろしい何かがじわじわと迫ってくるように感じられる。これにチェロ、ビオラ、バイオリンが輪唱するように重なってゆき、ソプラノの美しい声が天上から降り注ぐように響く。各楽章とも最後には、ほのかな救いの予兆を漂わせて終わる。

ブックレットには、スラブ文学者の沼野充義さんが訳した歌詞が載っていたものの、真剣に向き合うことはなかった。騒々しい日常からほんのひととき逃れるため、この音楽を純粋に音の響きとして「消費」していたといえる。かくして、大した時間もたたぬうちにラックの奥にしまいこみ、再び取り出すことはなかったように思う。

このCDを思い出させたのは言うまでもなく、ロシア軍のウクライナ侵攻だ。ロシア軍に息子を殺された女性の嘆きや、マリウポリの製鉄所の地下に避難しているという人々の姿を報道で見聞するうちに、いまこそ「悲歌のシンフォニー」に耳を傾けてみるべきではないかと思い立ったのだ。

沼野さんの訳に目を通しながら曲を聴いた。

《私の愛しい、選ばれた息子よ、自分の傷を母と分かち合いたまえ…》という15世紀後半に書かれた母親の悲しみ。《お母さま、どうか泣かないでください。天のいと清らかな女王さま、どうかいつもわたしを助けてくださるよう。アヴェ・マリア》というゲシュタポに投獄された18歳の女性の祈り。《わたしの愛しい息子はどこへ行ってしまったの? きっと蜂起のときに悪い敵に殺されたのでしょう…》という武装蜂起で息子を殺された母親の嘆き。

彼女たちの言葉は、現在のウクライナの女性たちの言葉そのものだろう。ちなみにグレツキはアウシュビッツ近郊で生まれ育った。強制収容所の建設が始まったのは彼が7歳のときだった。

殺戮(さつりく)が繰り返される現実を前に、この曲を聴いて何になるのか、という問いにはこう答えておこう。「この曲は必ずや、人間の内奥に潜む聖性に働きかけ、自分にできることは何かと考え始める契機になる」と。

「最後の一行」を書かなかった詩人

前回のコラムで引用したポーランドの女性詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカ(1923~2012年)最晩年の詩集『瞬間』が、沼野さんの訳で未知谷から刊行された。23編を収めている。

束ねることも束ねられることも拒絶して、「個」としてこの世界と向き合い、平易ながらも、批判精神に支えられたアイロニーや逆説をこめた言葉で「個」に語りかける彼女の作品を読めるのはとてもうれしい。

次に掲げるのはアイロニーに満ちた「統計の説明」の一部だ。《一人一人では害がないのに/群れ集まると狂暴になるのは/確実に半分以上》《いざとなったら/無慈悲になれるのは--/いえ、おおよその数であっても/知らないですませたいもの》などと書き、こう締めくくる。《死すべき人/100人中100人/この数字が変更される見通しはいまのところありません》

23編のなかで私の心にもっとも深く刺さったのが「九月十一日の写真」だ。2001年9月11日に米国で起こった中枢同時テロで、ニューヨークのワールドトレードセンターから人々が飛び降りる写真の印象をもとに書かれた作品だ。

《燃えさかる高層ビルから飛び降りた/一人、二人、さらに何人も/上からも、下からも。》《写真はあの人たちを生きたまま止め/宙づりにした/地面の上で 地面に向かって。》と書き始めた彼女は、次のように〝着地〟を拒否して着地する。

《あの人たちのために私ができるのはふたつのことだけ/この飛行を描き/最後の一行を書き加えないこと。》

「最後の一行」とは、飛び降りた人たちが、次の瞬間にどうなったか、ということだ。彼女はこの作品において時間を凍結する。すぐれた詩人は、効果を狙ったのではなく、聖性の発露によって、「最後の一行」を書き加えなかったのだ。私はそう信じる。

凡庸な雑文書きも「あの人たちのために私ができるのは」と思い悩みながらこのコラムを書いているつもりだ。だが、覚えるのは無力感ばかり。ああ、凡庸ゆえに、書かなくてもよいことを書いてしまった。

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