新選組外伝

(11)数少ない生き残りの永倉新八、同志顕彰に尽力

新選組隊士名簿「英名録」。永倉の名前も記されている(霊山歴史館提供)
新選組隊士名簿「英名録」。永倉の名前も記されている(霊山歴史館提供)

剣の達人として知られる「新選組四天王」の一人、永倉新八(1839~1915年)。数少ない新選組生き残り隊士でもあり、幹部だから知り得た史実を手記として書き残し、新聞取材に応じて実歴談を語った。

旧幕臣の誇りを持ち、信念を貫く古武士の気風があった永倉は、江戸の生まれで、父の勘次は松前藩江戸定府奏者役百五十石。永倉は剣術では神道無念流免許皆伝のち心形刀流を修め、ここで後の新選組隊士、島田魁と会い、その紹介で近藤勇の剣にほれ込み、近藤の天然理心流へ食客として入門した。

近藤の信任厚く新選組では、二番隊組長を務めた。永倉は人一倍、新選組を愛し、言うべき時は正論を吐く。隊内では中道派だったが、近藤が勤王に傾くと、「天狗(てんぐ)になり候」と真っ先に批判。そうした一本気な性格のせいか、花街の遊びでもけっこうもて、好きな女性にほれ込み情が厚かった。

永倉新八(霊山歴史館提供)
永倉新八(霊山歴史館提供)

永倉は几帳面(きちょうめん)なところがあり、池田屋事件では近藤を助太刀しようと奮闘。深手を負い刀が折れながら戦い抜き、晩年「七カ所手負場所顕ス」を書き留めた。

鳥羽伏見の戦いでは土方歳三の指揮のもと敵陣に白刃をかざし斬り込み、島田に助けられ九死に一生を得る。江戸へ敗走して近藤率いる甲陽鎮撫隊に加わり、甲州城奪取をもくろむが、近藤が敗走を食い止めるため、来るはずのない会津の3百人の援軍の存在を隊士に伝え、激怒した永倉は近藤と決別した。

永倉は新選組の前野五郎、林信太郎ら20人と靖兵隊を組織し副長となり、千両の軍資金を持って東北各地を転戦したが新政府軍に敗れ、松前藩士の縁故で松前藩江戸長屋に身を隠した。旧藩医、杉村松柏の婿養子となり娘を娶って、杉村義衛と名乗り小樽に住んだ。現在で言えば刑務官になり、剣術指導をつとめた。

ところが永倉に太刀打ちできる者がなく、新選組の永倉と素性がばれてしまう。明治4(1871)年、刑務官を退職。土方ら箱館戦争で殉死した碧血(へっけつ)碑に参拝した後、東京に戻り新選組同志の顕彰運動に奔走することになる。新政府が旧幕臣の顕彰を許可されていない時期に、永倉は無謀にも新選組の理解者で幕医の松本良順に相談。近藤、土方の供養塔設立費用を集める募金活動をするため、明治5年から新選組の手記を書き始め、9年に書き終えた。

表紙に「徳川家御撰之兵」と大書し「浪士文久報国記事」とした。手記の中で「この一戦記大苦戦中日記致たる事にあらず、事件終て時々覚を繰り出したれば、実説ばなしにしてこれあり、ゆえに作本とはことなり戦場日記と知るべしなり」と記し、レクイエム(鎮魂歌)とした。9年5月、永倉みずから発起人となり東京・板橋駅東口に「近藤、土方両雄の碑」を建立した。

島田魁の葬儀の際の「悔帳」。永倉の改名「杉村義衛」と記されている(霊山歴史館提供)
島田魁の葬儀の際の「悔帳」。永倉の改名「杉村義衛」と記されている(霊山歴史館提供)

20年ごろ永倉は京都を懐かしんで訪問。新選組時代になじみだった島原芸妓の小常との間にもうけた娘、於磯と再会した。

京美人だった当時は岡田磯子と名乗り、尾上小亀の芸名で舞台女優になっていた。磯子はその後、39歳で没した。

明治末期、幕末を題材にした歌舞伎、講談、演劇が登場し、もてはやされた。

永倉実歴談として大正2年3~6月、小樽新聞の記者が永倉を取材し、「むかしは近藤勇の友達、いまは小樽の楽隠居」と70回にわたり連載。永倉は日々よろこんで掲載紙を読んだという。

永倉は新選組の手記に触れ、「実は以前に、当時の事柄を追うて日誌(浪士文久報国記事)したものをもっていたが、あるときそれを横浜の某講談師に見せたところ、実に得難い内容と貸してほしいといわれ、その後催促したが、返却されることなく連絡も取れなくなった」と残念がった。

ところが、新選組研究者の松村巌は松本良順との縁で、永倉からこの手記を直接もらい受けたと土佐史談(71号)に寄稿している。その後行方不明になり「幻の手記」と呼ばれた「浪士文久報国記事」(3冊)を平成10年に古美術商が入手。筆者が鑑定を依頼されたので、永倉の文書と照らし合わせたところ一部の文書を除き、ほとんどを永倉の筆跡と断定した。筆者は幻の手記を「新選組戦場日記」(PHP研究所)として刊行。永倉の連載紙はその後「新撰組顛末(てんまつ)記」の書名で刊行し重版されが、平成29年、筆者の解説で角川新書から再販した。

大正4(1915)年、永倉は北海道・小樽で波乱に満ちた生涯を閉じた。永倉の手記や実歴談がなければ、永遠に新選組の実像は闇のままであった。新選組顕彰運動に半生を費やした永倉の功績がなければ、新選組の実像は見えてこなかっただろう。(霊山歴史館学術アドバイザー 木村幸比古)

きむら・さちひこ 昭和23年生まれ。国学院大卒業後、明治維新総合博物館の霊山歴史館(京都市東山区)で学芸課長、副館長などを歴任し、令和2年秋から現職。産経新聞で平成25~30年に「幕末維新伝」を連載したほか、著書多数。歴史番組での時代考証・監修も務める。

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